私はいつもの通り、そんな当たり前のことに原始的な嬉しさを感じて、幸福な半日を歌い明かしたのち、夏の日の海に太陽が沈むころ、ようやく譲葉(ゆずりは)の垣根の中へと帰りました。
二十
私は足を洗うために裏庭を回って、もう風呂が沸いている時間だろうと思い、湯殿の戸を開けて入りました。
そして、いい加減に冷めた湯船にドップリと浸かって、くたびれた足を楽々と伸ばしました。
お湯が乳房のあたりでくびれ上がり、軽く糸で結ばれたような心地よい感覚を与えます。
私は浮き上がる体を両手で支え、頭を仰向けに預けて、温まった肌に息を吹きかけてみたりしながら、今日の楽しさを心の中で繰り返していました。
私はそこを「木霊の峰」と名付けました。
それがふとした道の間違いから見つかったこと、それゆえに私のほかには誰も知る者がいないということ、そこへ行くにはあの危険な崖の上を駆け渡らなければならないということ……それらの事実が、私をいっそう喜ばせました。
そのうち、私は何気なく揺れているお湯の表面を透かして見ました。
すると、よく見なければわからないほどではありますが、いつになく薄白く脂が光っているのに気がつきました。
誰か入ったのかしら。そう思えば、何もかもがそう見える気がします。
誰か来たに違いありません。
私は急に非常な不安を感じ始めました。
私にとって、知らない人間はすなわち嫌いな人間なのです。
で、すっかり興をそがれてガッカリしているところへ、ばあやが気づいて流し場へやってきました。
そして、湯を替えなかったことを申し訳なさそうに言いながら、「東京のお家から若奥様が見えましたよ」と言いました。
友達の家にはそんな人はいないはずです。
確か、京都に行っている姉様がこの夏上京すると言っていたから、もしかしたらその人かもしれません。
それなら仕方がない、と諦めはしたものの、「困ったことになった」と思いました。ばあやは、大げさに声をひそめて、
「それはそれは、とっても美しいお方ですよ」
と言って出ていきました。
そのあと、私はまるで日陰者みたいにこっそりと自分の部屋へ戻り、柱にもたれかかったまま、ぐったりとしてしまいました。
初対面の挨拶をするのが、なによりも苦手なのです。
馴染みのない人の前に畏まっているときのつらさといったら、まるで目に見えない縄で縛りつけられているようで、しまいには眉間のあたりが引きつり、肩のあたりが焼けつくように熱くなってくるのです。
その方は、向こうの離れにいるらしい。
かねてから話に聞いていた姉様なら、そんなに嫌ではないけれど、それにしてもどんなふうに振る舞えばいいのだろう……などと、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと思案していると、縁側から静かな足音が近づいてきて、障子の外でピタリと止まりました。
私が柱から離れて机の前に座り直すあいだに、
「ごめんあそばせ」
と落ち着いた柔らかな声がして、その声に応えるようにスルスルと障子が開きました。
「まあ、まだ明かりもつけていらっしゃらないのですね」
と独り言のようにつぶやく声が聞こえ、長方形に切り取られた薄暗がりのなかに、白い顔がクッキリと浮き彫りになりました。
「はじめまして。
私は〇〇の姉でございます。
二、三日お邪魔をさせていただきます」
「は……」
そう答えた私に対し、罪の宣告を待っているかのような私の前へ、皿に乗せた匂いの高い西洋菓子を静かに差し出して、
「つまらないものですが……。
お口に合いますでしょうか」
と言いました。
そのとき、厳かで冷たい彫像のような表情が急に美しい人のものになり、少しはにかむように微笑みましたが、
「ただいま明かりを」
と言って、またもとの彫像に戻り、暗がりのなかへと消えていきました。
私はホッと息をつきました。そして、いかにも情けない自分を恥じながらも、消えていったその姿を思い出そうとしましたが、夢のようで捉えどころがありません。
それでもじっと目をつぶっているうちに、俄かに明るい場所へ出たときのように、だんだんとハッキリとものの形が浮かび上がってきました。
大きな丸髷(まるまげ)に結っていました。真っ黒な髪でした。
クッキリとした眉毛の下に、真っ黒な瞳が光っていました。
すべての輪郭があまりに鮮明なために、なんとなく親しみづらい感じがして、少し受け口な愛くるしい唇さえも、海の底の冷たい珊瑚を削り出したかのように思われましたが、その口元が気持ちよく引き上がって綺麗な歯が見えたときに、涼しい微笑みがすべてを和らげ、白い頬に血の色がさして、彫像はそのままひとりの美しい人になったのです。
二十一
それからというもの、私はなぜかできるだけ顔を合わせないようにして、朝から「木霊の峰」へ出かけ、帰るのにもことさら食事の時間を外したりしていました。それでも、同じ家に住んでいる以上、一日のうちにはどうしても顔を合わせなければならない時がありました。
私は峰へ行ってもちっとも歌いませんでした。まるで季節を過ぎてしまった鳥のように。
そして、あの絶壁のあいだから見える山々の深い色を、ぼんやりと眺め暮らしました。
ある晩、かなり遅くなってから、私は裏の山から月が上がるのを見ながら、花壇のなかに立っていました。
幾千もの虫たちが小さな鈴を振り、潮風は畑を越えて海の香りと波の音を運んできます。
離れの円窓にはまだ明かりが灯っていて、その前の蓮瓶(はすびん)には、先ほど降った夕立の涼しさを玉のように宿した数枚の葉と、ほの白くつぼんだ花が見えます。
私はあらゆる思いのなかでももっとも深い、名のない思いに沈んで、ひと夜ひと夜に形を欠いていく月を、我を忘れて眺めていました。
……そんなふうにしているうちに、ふと気がつくと、いつのまにか同じ花壇のなかに姉様が立っていました。
月も花も、どこかへ消えてしまったようです。絵のように影を映した池の面にサッと水鳥が降りるときに、すべての影がいっぺんに消えて、さりげなく浮かんだ白い姿ばかりが残るように。
私は慌てふためいて、
「月が……」
と言いかけましたが、あいにくそのとき姉様は気を利かせて向こうへ行きかけていたので、ハッとして耳まで赤くなってしまいました。
私はそんな些細なこと、ちょっとした言葉の言い間違いやバツの悪さのために、ひどく恥ずかしい思いをしてしまう性格でした。
姉様はそのまま静かに足を運び、花のまわりを小さく回ってもとの場所へ戻りながら、
「本当にいいですね」
と巧みに取り繕ってくれたのを、私は心から嬉しく、またありがたいことだと感じました。
二十二
翌日、新聞を返しに離れへ行くと、姉様はこちらに背中を向けて髪をとかしているところでした。
長い髪がサラリとほどけ、肩から豊かに波打って後ろへ滑り落ちています。
障子を閉めて帰ろうとしたとき、櫛を持った手を耳のあたりで止めて、鏡のなかの顔が微笑みながら、
「あの、わたくし明日お暇いたしますから……お別れに晩ごはんを御一緒にいただきたいと存じますから……」
と言いました。
……私はまた木霊の峰へ登って、空に舞う隼よりほかに伺うものもない自然の殿堂のなかで、歌も歌わずに半日を過ごしました。
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