すると、ほかの者もてんでに、
「獅子の毛だ」
「獅子の毛だ」
と言います。
バカ者たちは、初めて見た獅子の毛――それもたぶん間違いなのだろうが――に見とれていて、ほかのことは何ひとつ覚えてはいないのです。そんなふうに根掘り葉掘りたずねる私をさんざんじらしたあげく、ひとりがこう言いました。
「先生は戦争に行くのだから、もう二度と会えないかもしれない。だからみんなは、今度の先生の言うことをよく聞いて勉強し、偉い人にならなければいけない」
そう言ったと聞いて、私は急にハラハラと涙をこぼしました。みんなはあっけにとられて私の顔を見つめ、なかには目を引いたり袖を引いたりして、軽蔑の笑いを浮かべる者もいました。
彼らはまだ、このように泣くことを知らないがゆえに、「男は三年に一度泣くものだ」と言った先生の教えを、破ってはならないものだと思い込んでいるのでした。
二
私にとってさらに不仕合わせなのは、新しくやってきた丑田(うしだ)先生とさっぱり気が合わないことでした。
この人は柔術ができるということで生徒にも恐れられ、自分でも得意になって、誰もいないところでひっくり返って見せたりしましたが、いつぞや図画の試験で私のかいた瓢箪(ひょうたん)を「先生よりうまい」と言って三重丸をつけてくれたほかには、何ひとつ感心するところがありません。
こちらが先を嫌いであるとおり、たぶん先生もこちらを嫌っていたのでしょう。いつとはなしにお互いが敵同士みたいな具合になってしまいました。
それはそうと、戦争が始まって以来、仲間の話は朝から晩まで「大和魂」と「チャンチャン坊主(支那人への蔑称)」でもちきりです。
それに先生までが一緒になって、まるで犬でもけしかけるように、何かといえば「大和魂」と「チャンチャン坊主」を繰り返すのです。
私はそれを心から苦々しく、不愉快なことだと思いました。
先生は予譲(よじょう)や比干(ひかん)の話はおくびにも出さず、のべつ幕なしに元寇(げんこう)と朝鮮征伐の話ばかりします。
そうして唱歌といえば殺風景な戦争ものばかり歌わせて、面白くもない体操みたいな踊りをやらせるのです。
それをまたみんなはムキになって、目の前に不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であるチャンチャン坊主が押し寄せてきたかのように、肩をいからせ、肘を張って、雪駄(せった)の皮が破れるほどやけに足踏みをしながら、ムンムンと舞い上がる埃(ほこり)のなかで、節も調子もおかまいなしに怒鳴り立てるのです。
私はこんな連中と張り合うのを恥とするような気持ちで、わざと彼らより一段高く、調子を外して歌いました。
また、ただでさえ狭い運動場は、加藤清正や北条時宗の話題で鼻をつく始末で、弱虫はみんなチャンチャン坊主にされて首を斬られているのです。
町を歩けば、絵草紙屋の店という店には千代紙やあね様づくしなどは影を潜め、到るところ鉄砲玉がはじけた汚らしい絵ばかりがかかっています。
耳目に触れるもの、何もかもが私を腹立たしくさせました。
ある時また、大勢が一箇所にかたまって、聞きかじりの噂を種に凄まじい戦争談に花を咲かせたとき、私は彼らと反対の意見を述べて「結局、日本は支那に負けるだろう」と言いました。
この思いがけない大胆な予言に、彼らはしばらく目を見合わせるばかりでしたが、やがてその笑止ながらも殊勝な敵愾心(てきがいしん)は、もはや組長の権威をも無視するまでに高ぶって、ひとりの奴は仰々しく、
「あらあら、わりいな、わりいな」
と言いました。
他のひとりは拳固(げんこ)でちょいと鼻の先をこすって見せました。
もうひとりは先生の真似をして、
「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」
と言います。
私はより以上の反感と確信をもって彼らの攻撃をひとりで引き受けながら、
「きっと負ける、きっと負ける」
と言い切りました。
そしてワイワイ騒ぎ立てる真ん中に座り、あらゆる知恵を絞って相手の根拠のない議論を打ち破ったのです。
仲間の多くは新聞の拾い読みもしていません。
万国地図ものぞいてはいません。
史記や十八史略の話も聞いてはいません。
そのために、とうとう私ひとりに言いまくられて、不承不承(ふしょうぶしょう)に口をつぐみました。
が、鬱憤(うっぷん)はなかなかそれなりには収まらず、彼らは次の時間に早速先生に告げ口をして、
「先生、〇〇さんは日本が負けるって言います」
と言いました。
先生は例のしたり顔で、
「日本人には大和魂がある」
と言って、いつもの通り支那人のことをなんのかのと口汚く罵(ののし)りました。
それを私は、自分が言われたように腹に据えかねて、
「先生、日本人に大和魂があれば、支那人には支那魂があるでしょう。日本に加藤清正や北条時宗がいれば、支那にだって関羽や張飛がいるじゃありませんか。それに先生はいつかも、謙信が信玄に塩を送った話をして『敵を憐(あわ)れむのが武士道だ』なんて教えておきながら、なんでそんなに支那人の悪口ばかり言うんです」
そんなことを言って、平生の虫の居所が悪い気持ちをひと思いにぶちまけてやったら、先生は難しい顔をしていましたが、やがて、
「〇〇さんは大和魂がない」
と言いました。
私はこめかみにピリピリと癇癪(かんしゃく)の筋が立つのを覚えましたが、その大和魂を取り出して見せることもできないので、そのまま顔を赤くして黙り込んでしまいました。
忠勇無双の日本兵は支那兵と、私の小賢しい予言をさんざんに打ち破ったけれど、先生に対する私の不信感と同輩に対する軽蔑を、どうすることもできなかったのです。そんなこんなで、みんなと一緒にいるのが馬鹿らしくなってきて、いつの間にか自分から距離を置くようになり、いつもはたからその大騒ぎを冷めた目で眺めて笑うようになっていました。
ある日のこと、ひとりで廊下に立ち、何年ものあいだ腕白小僧たちに撫でられてテカテカになった手すりに肘をかけて、藤棚の下で飛び回る彼らの様子を眺めて笑っていたとき、後ろを通りかかったひとりの先生が、突然声をかけてきました。
「何を笑っているんだ」
私は答えました。
「子供たちが遊んでいるのがおかしくて」
先生は吹き出して、
「〇〇さんは子供じゃないのか」
と言うのを、私は真面目な顔で、
「子供は子供でも、あんな馬鹿じゃない」
と言い返すと、先生は「困ったものだねえ」と言いながら教員室へ入っていき、ほかのみんなに話しているようでした。
私はどうやら、先生たちから「困った子」だと思われていたようです。
三
同級生の生徒はどれもこれも、救いようのない三太郎(間抜け)だと馬鹿にしきっていたにもかかわらず、その三太郎たちの隊長ともいうべき蟹本さんには、心からせつない同情を寄せていました。
彼はほとんど知能に遅れのある子で、背の高さから見ればもう十六、十七歳にはなっていたでしょうか。
とにかく同じ学年に二、三年は留年しては、次第に上へ押し上げられるうちに、そのとき後から上がってきた私たちとちょうど同じクラスになったのです。
もとより自分の年齢も知らず、知能が遅れているせいでまだほんの幼い顔をしているので、彼がいくつになるのかは誰も知りませんでした。
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