わが国において金魚の飼育は、もう立派な産業ですよ」
実業家というやつは、抜け目なくいろんなことを知っているものだと、復一は驚いて顔を上げました。
鼎造は続けて言いました。
「それにしても、これからは何事も科学を応用しなければ損というものです。
失礼ですが、復一さんを高等な学校へ入れるにあたって、もし学費の工面が難しいようであれば、私が多少補助してあげましょうか」
唐突な申し出を平然と言う金持ちの顔を、今度は宗十郎が驚いて見つめました。
すると鼎造は、その動揺を抑えるように言いました。
「いや、ざっくばらんに言うとね、私の家にはメスの金魚が一匹しかいないもので。
だから、よそのオスの金魚を見ると、つい目について羨ましくて、好意を持ってしまうのですよ」
復一は、人間を例えるのに金魚の雌雄を持ち出すとは、冗談にしてもやりすぎだとムッとしました。
しかし、こうして反抗してばかりいるよりも、素直に受け入れたほうが真佐子と親しくなれるかもしれない、と考えないでもありませんでした。
真佐子に投げつけられ、上あごの奥に張り付いたあの桜の花びらの、切なくも懐かしい思い出を胸に――復一はしきりに舌先で、上あごの奥をいじっていました。
「お子さまがお嬢さまお一人では、ご心配でございましょうね」
お茶を出しながら宗十郎の妻が言うと、鼎造は少し意地を張ったような口調で答えました。
「その代わり、出来のいいオスをどこからでも選んで婿に取れますからね。自分の子供だったら、たとえボンクラでも後目を動かすわけにはいきませんから」
結局、復一は鼎造の申し出通り、金魚の飼育法を学ぶために専門学校へ行くことになり、学費の補助も受けることになりました。
真佐子は何にも知らないような顔をしていました。
しかし、復一がふと気づいてみると、すでに真佐子の周りには、鼎造が言うところの「よそのオス」として気に入られた青年が三人は確実にいて、金ボタンの制服を着て出入りする彼らの姿は、復一の目にはただ邪魔なだけでした。
復一の観察によると、真佐子は誰に対しても分け隔てなく接する態度で、その三人の青年と付き合っていました。
鼎造はもともと苦労人なので、学費を出すことを恩着せがましく考えず、青年たちを単なる話し相手として扱っていました。
友田、針谷、横地という三人の青年たちも、共通して卑屈なところがなく、学費を負担してもらっている恩人の娘に対しても、テニスのラケットで無造作に叩いたり、「真佐子、真佐子」とまるで年下の女の子のように呼び捨てにしたりと、皆一様に平然としていたのです。一匹のメスをめぐって三匹のオスが候補に挙がっているという状況を、彼ら自身も、そして周りの人間も、まるで気づいていないかのように振る舞っていました。
それが真佐子にとっては、男たちを誰一人特別扱いすることなく、平等に接するのに好都合だったのかもしれません。
崖の上のお屋敷に集う若い男女たちが、そのように滑らかで陽気な交友関係を築いているのを見るにつけ、復一は自分の性格を顧みて、いけないことだと分かってはいても、どうしても彼らとは正反対の道へ進んでしまうのでした。
「誰があんな自我のない連中と一緒にいるものか。僕にはあんな中途半端な付き合い方はできない」
征服するか、されるか。どちらかしかない。
しかし、この頃の復一が感じる真佐子の女性としての美しさは、どんどん現実離れした高みにまで登りつめていました。恋愛の相手として向き合うには、自分のような、何事も対立して角を突き合わせないと気が済まない性格の青年では、彼女の前に立っただけで気力を失ってしまうような、そんな存在になりつつあると思われたのです。
復一はこの頃から、早熟な青年らしく人生の問題について、あれやこれやと背伸びした思索を巡らせるようになっていました。
結局、崖の上へは一歩も近づかず、真佐子がこれからどう変わっていくのか、自分が最も得意とする「強情を張る」というやり方で対抗してみようと決心しました。
自分のような、華やかさも気品もない、ただ力だけが取り柄の人間が崖の上の連中に混じれば、不釣り合いで惨めな結果に終わるのは目に見えています。
ましてや、真佐子のような天女のような女性とは、到底釣り合うはずもありません。
いざ付き合えば、卑屈な道化になるか、偉そうな態度で虚勢を張るか、どちらか二つに一つです。
痩せ我慢をしても、僻み根性を募らせていくところにこそ、自分という人間の本質があるのだ。
要するに、普通の付き合い方では真佐子という相手には最初から適わないのです。
ただ一つ残された道は、意地悪く拗ねることによって、ひょっとしたら、今でもあの娘は自分に心を惹かれているかもしれない、と期待することでした。
復一は、変態的ともいえるほど真佐子をいじめ抜いた幼い頃の、哀しくも甘い思い出にばかり、次第に心を傾けていきました。
そうこうするうちに復一は東京の中学を卒業し、家畜や魚の研究に力を入れている関西のある湖畔の水産研究所へ、研究生として入ることになりました。
いよいよ出発まであと一週間となった九月のある夜、真佐子は懐中電灯を照らしながら崖の道を下りてきて、父の鼎造から預かった旅費と、真佐子自身からの餞別を届けに来ました。
宗十郎夫婦に丁寧な挨拶をした後、真佐子は復一に言いました。
「ねえ、お別れに銀座へでも行って、お茶でも飲みませんか?」
真佐子が何気なく帯の上前の合わせ目を直しながらそう言うと、あれほど頑固を貫くつもりだった復一の拗ねた心は、たちまち溶けてなくなってしまうのでした。
それでも復一は、必死になってこう返しました。
「銀座なんて騒がしいところより、僕は榎木町の通りくらいなら行ってもいいですよ」
復一の真佐子に対する言葉遣いは、もう三、四年も前から変わっていました。
友達としては堅苦しい、ほんの少し身分が違う男女間の言葉遣いに、復一はいつの間にか自分を慣らしていたのです。
「妙な場所を散歩に注文するのね。……いいわ、榎木町で」
そこは赤坂の山王下のような広々とした賑やかさでもなく、六本木と葵町の間のような引き締まった賑やかさでもなく、二つの大通りを斜めに縫うようにして、大きな店はないものの、こぢんまりと落ち着いた夜の街が続いていました。
店先には商品が充実し、その上、種類も豊富でした。
道の闇を程よく残しながら、初秋らしい店の明かりが、打ち水をした地面の上でキラキラと煌めいたり、流れたりしていました。
果物屋の側溝の上には、まるで放り出された砲丸のように残り物のスイカが青黒く積まれ、ショーウィンドウの中では、出始めの梨やブドウが得意げな顔で並んでいます。
太った女の子が床几に座って絵本を読んでいました。
騒がしくも寂しくもない、こぢんまりとした道筋でした。
真佐子と復一は、タクシーに邪魔されることも少ない町の真ん中を、臆することなく悠々と肩を並べて歩いて行きました。
復一が真佐子とこんなに近くを歩くのは、六、七年ぶりのことでした。
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