宵闇の中で、平らな砂浜の渚には、夜になるほど再び巻き起こるらしい白波が、遠近感を失って「ざーっ、ざーっ」と鳴る音とともに、復一の意識の境界線を揺らしました。明かりと暗闇の狭間にある、もうひとつの世界へ、復一は誘い込まれていくようでした。
すると、復一のぼんやりとした意識が向こうの闇なのか、それとも向こうの景色が復一の意識なのか分からなくなり、その曖昧さの中で、何でも自由に望むものが生まれそうな、不思議な力に満ちた楽しい気分が広がっていきました。
復一の何ものにもとらわれない心は、夢うつつの中で考え始めました――ギリシャ神話に出てくる半神半人の生き物なんてものは、単なる想像上の話ではない。本当に存在するのだ。
現在でも、この世の中に生きていると言える。
現実の世界に住み飽きてしまったり、現実の粗野で野卑なところに愛想を尽かしたり、あまりに精神が繊細すぎるために現実から追い回されたりした生き物であって、死ぬにはまだ生命力が強すぎる。
かといって、神や天上の人になるには幼すぎて、生活への未練が残っている。
そんな生き物が、この世界のあちこちで、悠々と遊んでいるのではないだろうか。真佐子といい、あの乱れるほど美しい金魚といい、生命の故郷はそんな不思議な世界にあって、自分たちの顔だけを現実の世界にひょっこりと出しているのではないかしら。
そうでなければ、現実とも理想ともつかない、あの中間のような美しい顔をして、悠々と世の中に生きていられるはずがないもの。
そういえば、真佐子にしても金魚にしても、あのぽかんと大きく見開いた瞳と、まるで朝起きたばかりのような無防備な顔つきには、どこか現実を一段下に見下ろして、人間離れした視線で批判しているような、皮肉っぽい平明さが仮面のように張り付いているのではないか……。
復一は、またしても真佐子に会いたくてたまらなくなった。
波の音が少し高くなり、空の真ん中で冴えわたる月光を浴びた水煙が、ほのかに白く立ち込める湖面に、一艘の船の影が空中に浮かんでいるかのように現れた。
櫓(ろ)を漕ぐ音が聞こえるから、夢ではない。
近づいてくる船の上で、櫓を漕ぐ女の姿が見えてきた。
いよいよ近くまで漕ぎ寄せてくる。
片手を挙げて、髪のほつれをかき上げる仕草が見える。
とたんに振り上げたその顔を、月明かりで確かめる。
秀江だ。
復一は、見てはいけないものを見まいとするように、急いで目を閉じた。
女の船の先が、復一のボートの腹をこつんと叩いた。
「あら、寝てらっしゃるの」
「………」
「寝てるの?」
漕ぎ寄せた女は、しばらく息を止めて復一の寝顔を見守っていた。
「うちの船が二、三艘帰ってきてね、あなたが一人でもくもくへ月見にモーターで入っていらっしゃるっていうのよ。だから追いかけてきたわ」
「それはいい。僕は君にとても会いたかったんだ」
女は突然そんな愛想の良いことを言われたので、かえって皮肉を言われたのだと受け取った。
「何を寝言を言っているの。そんな意地悪を言ったって、素直に私帰りませんけれど。もし寝言のふりをして私をごまかすつもりなら、はっきりお断りしておきますが、どうせ私はね、東京の磨き上げられたお嬢さんとは比べものにもならない、田舎の漁師の娘の……」
「馬鹿、黙りたまえ!」
復一は身じろぎもせず、仰向けのまま叫んだ。
その声が水面に響いて厳しく聞こえたので、女はびくりとした。
「僕は君のように皮肉がうまい女は嫌いだ。そんなことを喋りに来たのなら帰りたまえ」
恥ずかしさと嫉妬で体を震わせる女の様子が、目を閉じている復一にもはっきりと伝わってきた。
泣き声をこらえ、涙を飲み込もうとする秀江の気配――案外早くそれが収まると、船端で水をすくう音がした。
復一はわざと視線を外しながら少しだけ女の様子をのぞき、すぐにまた目を閉じた。
月の光を頼りに、女は静かに泣き顔をハンドミラーで直していた。
熱い思いが、飛竜のように復一の胸を斜めに飛び去っていったが、心の中で真佐子を想うと、再び美しいぼんやりとした意識が、赤い霧のように彼を包み込んだ。
秀江は思い直したように船べりに手を置き、今までのトゲトゲした口調を、絡みつくような笑いに変えて柔らかく言った。
「ボートへ入ってもいいの?」
「……うん……」
復一に、突然こんな感情が湧いた。
――誰もが思い通りにいかなくて悲しいのだ。持っているようでいて、何かしら欠けている。欲しいものをすべて手に入れられる人なんていないんだ。そして、誰だって寂しいのだ――。
復一は誰に対しても、自分に対しても、憐れみでたまらない気持ちになった。
「名月や湖水を渡る七小町」
これは芭蕉の句だったろうか――はっきりとは分からないが、そんなことを口にしながら、復一の腕は伸びて秀江の肩にかかった。
秀江は軟体動物のように、復一の好むどんな無理な姿勢にも耐えて、引き寄せられていった。
復一は、それとなく便りを時々真佐子に出してみるのであった。
湖の景色の絵葉書に「この綺麗な水でシャツを洗う」とか、島の絵葉書に「この有名な島へ行く船の渡し賃が二銭足りなくて、宿から借りた」とか。
すると、三度か四度に一度くらいの割合で、真佐子から返信があった。
それはますます、雲をつかむような内容だった。
「この頃はお友達の詩人の藤村女史に来てもらって、バロック時代の服飾の研究を始めた」とか、「日本のバロック時代の天才彫刻家・左甚五郎作の『眠り猫』を見に、日光へ藤村女史と行きました。とても可愛らしい」とか。
いよいよ彼女は、現実から離れていく兆候をはっきりと示し始めた。
復一はその「バロック時代」なるものを知らないので、試験所の図書室で百科事典を調べてみた。
それは、ヨーロッパの文芸復興期の人文主義が、自然なあり方からだんだんと離れていき、人間の業(わざ)だけが昇華を遂げ、哀れな人工的な絢爛(けんらん)さが造花のように咲き乱れた、十七世紀の時代様式らしい。
そしてふと考え合わせてみると、復一がぼちぼち調べかけている金魚の歴史の上では、初めて日本へ金魚が輸入され、愛玩され始めた元和(げんな)のあたりが、ちょうどそれに当たっている。
すると、金魚というものはバロック時代的な産物で、どうあれ彼女と金魚とは切っても切れない縁があるのか。
彼女を時代遅れの偶像のような女だと、今さら憐れみや軽蔑を感じながらも、復一はまた急に焦り出し、彼女の超越した世界を突き崩して、彼女を現実に連れ出し、彼女の肉体と自分の肉体とを血で結びつけたいという願いが、むらむらと燃え上がった。それは何度も思いついては、そのたびにうやむやになって消えてしまった願いなのかもしれません。それでも、心の中で燃え上がるたびに復一を新鮮な情熱で満たし、もう誰にも止めることはできないものでした。
「生理的な面から見ても、生活的な面から見ても、異性の肉体というのは称賛すべきものですね。今、僕のそばにいる湖畔の女性が、うやうやしくそれを僕に捧げてくれています」
復一は自分でも嫌味な書き方だと思いましたが、どうしようもありませんでした。
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