翌年の花の季節が巡ってくると、雄魚たちの胸びれには、春の宵空のように潤んだ目のような「追星(おいぼし)」が現れた。
すると魚たちの本能が、彼ら自身も抑えきれないような素振りを見せ始める。
艦隊のように堂々とした隊列で泳ぎ回ったり、闘鶏のように互いを鋭くつつき合ったりする。
体にまとったぬめりを水でこすり落とそうとして、何度も何度も激しく体をひるがえす。
自分の意志よりも、肉体の情動がほとんどそちらへ流れてしまっている木人のような復一だったが、これを見ると、ほんのりと世俗の色気を感じるのか、珍しくひとりで六本木の夜の街へ散歩に出たり、夕食の膳にビールを一本注文したりするのだった。
それを運んできた養母のお常は、
「あたしたちももう隠居の身なんだから、早くお前さんもお嫁さんをもらって、本当の楽をさせておくれよ」と、世間並みに結婚を急かした。
「僕の家内は金魚ですよ」
酔いにまかせて、そうした話に釘を打っておこうと復一が言うと、養母は、
「まさか――おまえさん、子供のころから金魚なんてそんなに好きじゃなかったはずだよ」と言った。
養父の宗十郎は、この頃流行り出した古典復活の気運に影響され、再び荻江節の師匠に戻りたがり、「四十年ぶりだ」という昔話を前置きにして、三味線のバチを取り上げた。
荻江節。
松はつらいとな、人ごとに、皆いは根の松よ。
おおまだ歳若な、ああ姫小松。
なんぼ花ある、梅、桃、桜。
一木ざかりの八重一重……。
復一にはその歌が上手いのか下手なのか判らなかったが、連翹の花の向こうにある母屋から聞こえてくる、のびやかで少し枯れた声を聞くと、執着の川に翻弄されながらも、なんとか棹を差して生きようとする一人の人間が、しみじみと哀れに思えた。
養父は普段通り、ありふれた金魚を牧草のようにたくさん作っていたが、出来上がったものは鼎造(ていぞう)の商会が買い取ってくれるので、売る苦労はなかった。
だが、
「とても安く買い叩かれるから、素人の商売人には敵わないよ。復一、お前は鼎造に気に入られているんだから、代わりにもっとふんだくってこい」
と宗十郎はこぼすのだった。
そして多額の研究費を、復一の代理として鼎造から引き出しては、痛快がっていた。
復一は親たちが何を言おうと黙って聞き流しながら、せっせとプールの水を替えた。
別々に分けていた雄魚と雌魚を、そっと一緒にしてやった。
それから、湖のもくもくから遥々採ってきて消毒した柳のひげ根を、大事そうに縄に挟んで沈めた。
空は濃い青色に澄み渡り、小鳥は陽の光を水飴のように翼や背中にまとわりつかせていた朝のことだった。
縁側から空気の中に手を差し出したり、頬を突き出したりしていた復一は、やがて、
「風もない。よし――」と言った。
日よけの葭簾を三分ほどめくり、覗き込む隙間を確かめて待っていると、列をなした三匹の雄魚は順々に、海戦の衝角(しょうかく)突撃のようにして、一匹の雌魚を柳のひげ根の束の中へ追い込もうとしている。
雌は避けられる限りは避け、逃れようとする。
それはなぜだろうか。
処女の恥じらいのためだろうか。
生き物本来の、性の独立を守ろうとする心だろうか。
それとも、かえって雄を誘う駆け引き(コケットリー)だろうか。
ついに逃げきれなくなり、雌魚は柳のひげ根に、美しい真珠のような卵を撒き散らして逃げていく。
雄魚たちは勝利の腹をひらめかせ、一つ一つの卵に電撃のような生命を授ける。
ふと気づくと、復一は両肘を蹲(うずくま)った膝頭につき、固く握り合わせた両手の指の関節を口に当てて、血が出るほど強く噛み締めながら、心から祈っていた。
いかにささやかなものでも、生命がこの世に生み出されるということは、決して軽々しく済ませてはならないことだ。
復一のように人間嫌いの病にかかっている者には、産み出されるものが人間から遠い生物であればあるほど、より緊密な衝動を感じるのだった。
ましてや、不安を抱いていた異種の金魚と金魚が、復一のエゴイスチックな目的のために協力して命を生み出してくれることは、どれほど感謝してもし足りない気がした。
休養のために、雌魚と雄魚を別々に離した。そして復一は、栄養をつけるために白身の軽い魚を煮てやると、男でありながら母のような慈しみの気持ちが湧き上がり、痩せた体までもが満ち足りていくような感覚を覚えたのでした。
しかし、その年に生まれた稚魚たちは、復一が期待していたものよりも、どこか媚びたような下品な出来栄えでした。
これを二年続けて失敗した復一は、出発点から計画をすべて見直し、建て直すことに決めました。
彼は、根本となる親魚の選び方からして間違っていたことに気づいたのです。
彼が求める美しい魚を作り出すには、どうしても童女のようなあどけなさを胴体に持ち、そこに華やかさや色気を加えなければなりませんでした。
そして、これには原種の蘭鋳(らんちゅう)から育て上げる以外に、理想の体型を持つ金魚はいなかったのです。
復一の心には、真佐子が子供のころに大切にしていた蘭鋳に似た、純粋な姿が思い出されました。
結局のところ、自分は真佐子の影響を強く受けているのだと気づき、彼は久しぶりに悔しさを噛み締めました。
その苦しさは、今となってはどこか懐かしくさえありました。
それでも彼は、弱気になりそうな心を奮い立たせました。一度は真佐子の影に降伏して、蘭鋳の素朴さに立ち返ったとしても、もう一度彼女の感性に匹敵するほどの美しい金魚を育て上げればいい。それを親魚にして子に子を産ませ、そこからはたとえ歩みは遅くとも、少しずつ自分の理想へと近づいていけばいい。それは自分自身の勝利であり、その勝利の結晶である美しい金魚を、自分だけのものにできるはずだ――と、無理やりにでも闘志を燃え上がらせました。
この先は、しばらくじっと耐える時期だと復一は考えました。
復一は見事な蘭鋳の親魚を関西から取り寄せ、来るべき春の交配を待ちました。
蘭鋳の胴体はあどけなくて可愛らしいものでした。
しかし顔はブルドッグのように獰猛だったので、美しい姿の金魚と交配させて、まずはその荒々しさを取り除くことが肝心でした。
崖の上の邸宅にはあまり近づかない復一は、真佐子の夫ともめったに会うことはありませんでしたが、その夫という男は、神経質そうな切れ長の目に、鼻筋が通り、少し頬骨が高い、男性的な鋭さを感じさせる美青年の紳士でした。
ある日曜日の朝、真佐子と女の子を連れてロマネスク風の茶店へやってきて、外国語の新聞を読んだりしていました。
そのとき、すぐ下の崖の中腹にある汚水溜まりから、金魚の餌となる「あかこ」を採ろうと降りていた復一がふとそこを見上げましたが、彼はそれなりに知らぬふりをして、さっさと崖を降りてしまいました。
それを見た真佐子は、夫と一緒にいるのが何だか後ろめたく感じられました。
「いいじゃないか。なぜそんなに気にするんだ」
と夫は無造作に言いました。
「だって、ここで二人並んでいるのを、どこからでも見られてしまうでしょう」
と真佐子は真っ直ぐに言い返しました。
「どうして君と僕がここにいるのを人に見られて悪いことがあるのかね」
夫の言葉には、少し嫌味が含まれているようでした。
初級翻訳・金魚撩乱 第11話
岡本 かの子
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