これは、こわいお化けの話をするわけではありません。お化けについて、いろいろと考えたことや感じたことを、思い出すままに描いていこうと思うのです。
絵描きである私は、お化けというものの面白さを、むしろその「見た目の形」から強く感じています。
そんなわけで、私が描いた「百鬼夜行絵巻(ひゃっきやぎょうえまき)」も、この文章のあちこちに添えておこうと思います。
「君子は乱神怪力を語らず」
昔のすごいお医者さんや先生である孔子(こうし)様は、「立派な人は、神様のたたりや、わけのわからない不思議なこと、気味の悪い化け物などの話をしないものだ」と言いました。
さすがは、人生の深い深い実感から生まれてきた言葉だなあと感じます。
なぜなら、わけのわからない不思議な話をするということは、結局のところ「嘘をつくこと」に対して、あまりにも無神経になってしまうということだからです。
妖怪や変化(へんげ)というものは、「そんなものはいません」と言い切ってしまっては、面白味も何もないものに違いありません。
そもそも人間というものは、どんなことでも面白い方が大好きな生き物ですから、お化けなんて本当はいないんだと決めてしまうのは、なんだかつまらない話なのです。
もともと妖怪というものは、人間の神秘的なことへのあこがれや、こわいもの見たさの本能などから生まれた空想を、もっと面白くするように飾り立て、工夫した一種の「恐怖の神秘的な詩(し)」なのです。そのため、人間の心の中には、この化け物を愛して、その存在をなくさないでおこうとする一種の本能的な気持ちがあるものなのです。
それと同時に、人間には、そういう不思議な怪力乱神のたぐいを「絶対に信じないぞ」という本能もあります。
信じまいとする本能は誰でもすぐに気づきますが、それとは別に、「最初から信じない」という生まれつきの本能もあるように思えるのです。
つまり、「なんだかおかしいぞ。そんな理屈はおかしい」という、目に見えるものや合理的なことを大切にする本能が、勉強しなくても人間には備わっているように思えるのです。
昔、科学の力がまだなかった時代でもよく、頭が良くて強い心を持った人物は、「世の中に化け物のたぐいがいるわけがない」とハッキリ言い切ったりしていました。もちろんその人は、現代の難しい科学や理論を勉強していたわけではないので、学問的な確かな証拠を持っていたわけではありません。
それでもその人にとっては、それが心の底からの実感であり、揺るがすことのできないものだったのです。
たとえその人だって、大きなおばけの木の下を通るときや、その他の一番こわい場所を通るときには、やっぱり肌で感じるようなゾッとする気配を味わったことでしょう。それにもかかわらず、その人は「世の中に化け物なんていないんだ」という実感の方を強く信じているのです。
ところで、不思議な話や化け物の話をしたがる人だって、もちろんこの「合理的に考えようとする本能」は持っているはずです。特に、今のように科学の力でお化け退治がすっかり済んでしまったような世の中にあっては、頭の理論上では一応お化けを否定できるにもかかわらず、それでもやっぱり、なんだかお化けが好きでたまらないのです。
さて、手っ取り早く言ってしまえば、心から妖怪を信じ込んでいる人は別として(そういう人は実際にいますし、その人は自分自身のいろいろな体験から本当に信じているので、また違った味わいがあります)、大体において妖怪の話を好んで語る人には、次のような特徴があります。
一つ、ちょっぴり嘘つきなところがある人。
一つ、自分の行動を振り返る反省が足りない人。
一つ、たくさんの人の中にいるときに、自分の意見をしっかり保つ心の強さが弱い人。
一つ、ふざけたり遊んだりする気分がとても強い人。
一つ、話の面白さのためなら自分をよく見せようと嘘をつく人。
一つ、他人からどう見られるかばかりをすごく気にする人。
一つ、芝居じみたところがある人。
一言でまとめると、心がちょっぴり弱い人が多いように思えるのです。
つまり、自分を賢く見せたがる「才子(さいし)風」の人が多いと思うのです。
だからこそ、お化けの話が大好きな人は大体において、意地悪ではなく、他人に対して少し気が小さくて、人がいい「好人物(こうじんぶつ)」が多いのです。
これに対して、「化け物なんていない!」と言い張る方の人間には、時として、次のようなところがあります。ものすごく強い意志を持っていて、他の人が「少しは嘘と知りながらも、面白さに引かれて怪談を楽しんでいる」ときに、その嘘の方をちょっと大げさに憎み、みんなが面白がっているのを楽しもうとしない、底意地の悪さがあるのです。
つまり、昔の堅苦しい人や、水野越前守(みずのえちぜんのかみ)のようなきっちりした人には、そういうところがあるのです。
しかし、どんなにそうだとしても、「化け物はいない」と言い切る人たちのほうが、しっかりとしたブレない心を持っているということは、どうしても否定できません。
本当の君子(立派な人)というものは、水野越前守のように他人のちょっとした楽しみを絶対に許さないような、そんな冷たい心の持ち主ではありません。しかし、みんなにただ合わせるだけで自分がないということはせず、本当の真実を愛し、嘘を大嫌いになり、感情的なことよりも物事の正しい道理を大切にします。だから結果として、お化けの話などはしなくなるのです。
ましてや、それが人々の心を惑わしてしまうような昔の時代においては、化け物の話を禁止することを一つの「戒め(いましめ)」にしたのは、まさにその通りで正しいことでした。この孔子様の言葉の一言の中には、世の中のあらゆる事情や人々の気持ちが感じられるように思えて、私は今さらながら、孔子様はなんて深い心を持った人なんだろうと感心させられるのです。
しかし、それにもかかわらず、私は「怪談」というものに対しては、やっぱり特別な面白さや興味を持っています。
私は、お化けが本当にいるなんてことは、みじんも信じていません。
また、冗談は別として、他の人に「お化けがいるんだよ」と真面目に話すこともありません。
それでも、怪談を語ることや、怪談を聞くことは大好きです。
それはあくまで「お話」として、その面白さをじっくり味わうのが好きなのです。
私は前にも書きましたが、お化けというものは、日本という国の人々や、人類が生み出した一種の「芸術的な作品」であり、一つの「詩」だと思っています。だからこそ、一つ一つの怪談に表れているさまざまな技術や、さまざまな空想、そしてドキッとする実感を味わうのが大好きなんです。
かなりよく考えられた技術的なお話もあれば、本能を直撃するようなリアルな実感のこもったお話もあります。
実感のこもったお話は、ピリッと心に刺さるような、「怪しい!」という独特の実感がしっかりと掴(つか)まれていて、しかもその「こわさ」の種類が、自分自身の感覚にもピッタリと当てはまったりすると、私はもう感心してたまらなくなるのです。
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