初級翻訳・ひな勇はん 第2話

ひな勇はん

一日中お部屋でぼんやりしているなんて到底ムリだし、それにやっぱりお妙ちゃんに会いたいし!」
そんなことを思いながらごはんを食べて、昨日と同じ着物を着て、昨日よりもずっと大胆に格子戸をガラリと鳴らして、「お妙ちゃんはいる?」って声をかけることができました。

二階でお妙ちゃんは朝のお化粧をしているところでした。
私はその背中にピッタリ立って、鏡に映る雛勇はんの、なんとも言えないくらい綺麗でふっくらした胸のふくらみや、まっ赤な襦袢(じゅばん)の袖が胸を包み込んでいる様子をじっと眺めていました。
お妙ちゃんは時々手を止めて、器用に顔の形をガラリと変え、「これがまあ!」なんて笑われちゃうようなおどけた顔をしてみせるのです。
私はそんなお茶目な姿にびっくりするほど大きな声をあげて笑いながら、お化粧が終わるのを待っていました。

白い子猫をからかって遊んでいる間に、雛勇はんは私の後ろにやってきて、私の髪の毛と自分の髪の毛をくるくるとより合わせていました。
私は、そんなことをするのにどんな意味があるのかちゃんとうすうす知っていたけれど、知らんぷりをしてわざと後ろを向いていました。
「うれしい!」
お妙ちゃんが小さな声でそう言った時、私はそっと後ろを振り向きました。
「私も嬉しいわ、お妙ちゃん」
ニコニコしながらそんな風に返事をしました。
「まあ、あんたはんなんてこと知っておいでやはるの、こんな秘密の遊び……」
私はだまっていたまま、そのキリッとしたパッと見開かれた目をじっと見つめていました。
「まあ、そんなことどうでもいいじゃない! ほかのみんなはどうしてるの?」
「ほかの人たちは寝坊だから、おふろに行ったのや」
「昨日来たとき何だかちょっと変な雰囲気で、全然お話できなかったから、今日はずっと長くいてもいい?」
「かまへんわよ、一日中おってもええよ。でも、夕方からはお座敷に行かなきゃならんさかえ……」
「でも、おとといお店に出たばかりだって言ってたのに……」
「そうや、あの角の蝶吉はんがお休みになはったさかえ、代わりの番になったのや」
「今夜はどんな着物着るの?」
「あのいつもの……だけど、今夜は水色の方を着るのや。裾の長さがちょっと合わなくて気がもめるけど……」
「直す用事はないの?」
「あとでちょっと、かあはん(おかあさん)に直してもらうのやけど、今日はあっちに行くからもういいの……」
「誰も帰ってこないうちに、二人きりで、誰にも邪魔されずにしたかったお話を今のうちにちゃちゃっとしちゃわない?」
「ありすぎてどこから話していいか分からんくらいやわ……でも、わて、東京のいとはん(お嬢さん)に会ったのあんたが初めてやさかえ、ほんとうにうれしいわ……。でも、あんたのお話しがあんまり早口やさかえ、何言ってるのか分からんこともあるわ。だけど……こうして今すごく仲よくしてても、あんたが東京に帰っておしまいになったら、もう、ここを一歩はなれたら私のことなんてサッパリ忘れてしまいはるやろな……」
「どうしてそんなこと言うの! 忘れてしまうような、ほんのちょっとしかお付き合いしない人には、私の本当の気持ちなんお話ししたりしないから――いつまでもずっと仲よくしていられるもん。東京に帰っても、――どこの果てまで行ったってね!」
「でも、なんだか不安やわ。なんだか私のこと忘れちゃいそうやし――そんな悲しいことを想像すると、今でもほんとに涙がポロリ、ポロリってこぼれちゃうわ……」
「そんなに心配なら、いっそ血判状(起請文)でも書いて、小指でも切っちゃおうかしら!」
「それもいいかもしれないけど……でも笑われちゃうわよねぇ。そんなことしたら、お座敷に出てきたときにお客さんに笑われちゃうわ、きっと……」
「薄情なことなんてしないけど、どうせそんな大げさなことしないからいいの、ふふっ」
「ほんのちょっと出会っただけなのに、どうしてこんなにすぐ仲良くなっちゃったんだろうね……」
「神様のお引き合わせやわ。二人でお礼参りに行ってきやはらない? すぐそこやさかえ。これまで毎朝お参りして居たの……」
「どうしてやめちゃったの? これからも行ってればいいのに――」
「もういいのや、回数が決まってしもうたのやから」
「何が決まったの? 私にはちっとも分りゃしないよ。一人でいいなあって喜んでたのに――」
「言わん方がはなや……分かっとるくせして、ほんまに困ったお人やなあ……」
お妙ちゃんは笑い声があふれそうになりながら、長い袂(たもと)で私をそっと叩くふりをするのでした。

私たちは二人でお互いに寄りかかり合いながら、そんなとりとめもなく、そして最高に美しい気持ちのまま、薬玉や子猫や白粉の瓶などを眺めながらおしゃべりをつづけていました。
すぐ斜め向かいの家から、二絃琴(にげんきん)の音が聴こえてきます。
お妙ちゃんはその音色に軽い調子で鼻歌を合わせていましたが、ふと急にだまって、私の横顔をジッと、まばたきひとつせずに見つめました。
「どうしてそんなに見るの? 何かついてる?」
私は思わずそう尋ねました。
「どうもせんけど……万が一いつか別れてしもうた時、その時のことをちゃんと思い出せるように、よく顔を見とくのや。その方があとでいいと思うてナ……」
「だって、まだ七月の今日十六日だよ? 九月の半ばにならなくちゃお家(東京)に帰ったりしないんだもん……!」「もしあんまり二人で離れるのがつらかったら、京都の女の子になっちゃいましょうよ。ね、そうすればいいんだもの、くだらない心配なんておしまい!」
「ほんまに……考えん方がいいのやけど、わての仲ようする人は皆早うどこぞへ行ってしもうたり、どうでも別れにゃあならんような人ばっかりやさかえ、なんだか妙やと思うてナ。それだから私が、又あんたも……って思ってしまうのや……」
身なりに似合わないしんみりした声でお妙ちゃんは言っていました。
こういう仕事をしている人たちにありがちな、なんとなくうきうきした派手なところはあまりなくて、内気な女の子とおしゃべりしているのと少しもちっとも変わりません。
「あなた、わりあい内気なほうだこと、どうしてかしら?」
「そうやナ、だれでもそう言いやするさかえ、自分でもなんでやろと思うてもわからんさかえ……。母はんもよくして下さるし、皆可愛がって御呉れやはるけど…………生れつきやろ、きっと……。でもいいワナ、あんたさえしっかり覚えて御呉れやはれば……なんだかすぐに忘れられそうに思われてならんのエ……」
「どうしてそんなこと言うの! おやめなさいよ。きっと忘れたりしないから、私、死ぬまで覚えているわ、絶対に! もし死んじゃったらその後のことが分からなくなっちゃうから、覚えていられるかどうか分からないからしかたないとして、ねぇ」
「ほんまにあんたをたよりにしてるのやさかえ……」
雛勇(ひなゆう)さんはこんな切ないことを言っています。その横顔は、瞳をよそに動かしたくないほどの美しさで、背後から差し込む日光を受けて、真っ白な顔の輪郭がうすいバラ色にぽうっと染まって輝いています。

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