初級翻訳・へちまの木 第1話

へちまの木

一

 房二郎が腰を下ろしたとき、すぐ斜め向こうにいた男は、アジの塩焼きを食べながらお酒を飲んでいた。
 房二郎はお酒を注文し、おつまみはいらないと言った。
 ほっぺたを膨らませたような顔の店員(小女)は、バカにしたような声で、お酒一本、おつまみはいらないってさ、と当てつけがましく大声で言い放った。
 房二郎はもう慣れているのか、知らん顔をしていた。その男はちらっとこちらを見たあと、骨までしゃぶり尽くした塩焼きの皿を押しやって、イモ汁をくれと言った。
 その「沢茂」というお店はこぢんまりとしていた。
 客が十人も入れるかどうかといった広さで、まだ柱の木肌は真新しいものの、全体的にやけに気取った造りになっていた。
 店員は女の子が二人で、どちらも田舎から出てきたのだろう、お化粧をしていないのはもちろんのこと、手足は真っ黒だし、赤茶けた髪の毛はボサボサ、動きも荒々しくて、まるで野放しにされた子グマのような娘たちだった。

「年に一度や二度のことだけどよ」と、すぐ脇のテーブルで職人風の中年の男二人が、飲みながら話していた。「ついこのあいだもまたやらかしちまってさ、ちょっとくらいならいいんだけど、敷き布団から畳までぐっしょり濡らしちまうんだからな」
「トミ坊はまだ五つだったよな?」と相方の男が聞いた。
「今年で六つになるんだ」と、さっきの男が言った。「六つにもなっておねしょじゃすまされねぇ。だから、その濡れた布団を背負わせて、町内を三周してこいって家の外に放り出してやったのさ」
「おれにも覚えがあるぜ、いやなもんだったよなぁ。みんなに見られるし、笑うやつだっているしよ。トミ坊もさぞつらかったろうさ」
「どうだか知らねぇけどよ」と、その男は続けた。「町内を回ってこいって言ったのに、あの野郎、そのまま神田の方まで行っちまったんだ」
 相方の男は聞き間違えたと思ったのか、「どこだって?」と聞き返した。
「神田だよ、神田の多町(たちょう)まで行っちまったんだよ」
「だってよ」と相方の男が言った。「おめえのうちは川の向こうだろ?」
「川の向こうどころか、亀戸のさらに先だぜ」
「へえー、そいつは驚きだな」
「驚きどころじゃねぇや。おれが帳場から帰ってみたらよ、町内は大勢で迷子を探す大騒ぎさ」

 房二郎はゆっくりとお酒をすすりながら、二人の会話を聞いて思わずクスリと微笑み、同時に、すぐ向こうにいる男をじっくりと観察していた。
 男の年齢は三十五、六歳くらい。中肉中背のどこにでもいそうな体つきだが、焦げ茶色の乾いた肌と、よく動くくぼんだ目、そして、そこだけやけに赤い唇が、なんとなく房二郎の心を惹きつけていた。

――イモ汁というのは、とろろ汁の中に何か白身の魚と青い葉っぱが入っているらしく、その男はその汁でお酒を一本空け、次に、お酒と甘煮を注文した。

「多町の交番(自身番)に貼り紙が出ているのを、町内の人が見つけてくれたのは、その翌日のことさね」
「こりごりさせられたのは、親のほうってわけか」
「見事にお返しくらっちまったようなもんさ」

 房二郎はまた微笑んだが、すぐに眉をひそめた。
 その子供は、町内の人たちが総出で探し出したという。
 おれのうちはどうだろう。父や母や兄や姉たちは、おれを探してくれているだろうか。
 いや、そうではまい。おそらく厄介払いできてホッとしていることだろう、と彼は心の中で思った。

「おい、おチョボ」と、目の前の男が店員を呼んだ。「そこのおチョボさん、聞こえないのかい」
 指をさされた店員はムッとしたようにほっぺたを膨らませてこちらに近づきながら、自分の名前はおつゆであって、おチョボなんていう変な名前じゃない、と抗議した。
「おつゆだって?」男はそのよく動く目でじっと店員を見つめながら、歯を見せて、声を出さずに笑った。「悪かったな。ずいぶん元気そうなおつゆさんだ。お通じはちゃんとあるかい?」
 房二郎は危うくお酒を吹き出しそうになった。
「意味わかんねぇこと言う客だよ、この人」と、その店員は言った。「で、用はなんだい?」
「酒と刺身だ」と男は言った。「刺身はマグロの中トロにしてくれ」

 変わった注文をするものだな、と房二郎は思った。
 アジの塩焼きの次にイモ汁、そして甘煮のあとにお刺身とは、順番がなんだか逆ではないだろうか。
 好みは人それぞれとはいえ、四番目に刺身というのは珍しい。そんなことも知らない男には見えないし、それだとすれば、もしかしたら何か裏があるな、と房二郎は直感した。
 その直感は外れなかった。
 すぐ脇のテーブルで飲んでいた二人がお勘定を払って店を出ていくとすぐ、刺身を二、三切れ食べたばかりの目の前の男が、大きな声で店員を呼んだのだ。「そこのおちょぼ」と、男は言った。「ちょっと板前を呼んでくれ」
「あたしのお名前はおつまっていうです」と、その女の子の店員は言った。「何の用ですか?」
「板前を呼んで来いって言ってるんだ」
「旦那はいそがしくて、いま手が放せないです。何の用ですか?」
「旦那なんて誰が言った、板前だよ、板前」と、男は言った。「この刺身を作った板前を呼べって言ってるんだ」
「それが旦那です。うちじゃあ焼くのも煮るのも、刺身を作るのもみんな旦那さんがやるです。何の用ですか?」
「その旦那を呼べっていう用さ。おっと」男は片手を上げた。「いそがしくて手が放せないとは言わせねえぞ。客はおれとこちらの二人っきりだからな、わかったか」
小さな店だから、男の言葉は厨房(板場)まで丸聞こえだった。
店員が呼びに行くまでもなく、前掛け(片襷)をした四十代くらいの男がこちらへ出てきた。
「あっしをお呼びですか?」
「ああ、おまえさんかい、この店の主(あるじ)で板前さんていうのは」
「ええ、あっしがこの店のあるじで板前をしています」
「じゃあ、この刺身を食べてみてくれ」
「なにかお気に召しませんか?」
「食べてみろよ」男は刺身の皿を押しやった。「おまえも包丁を握る商売なら、包丁をどう使うかぐらいは知っているだろう。まあ食べてみろよ、鉄臭い(かなっくさい)からさ」
主人はどきっとしたようだった。
男は右の肘をテーブル(飯台)に突き、頬杖をつきながら、そのよく動く目をぎろりと光らせた。
「おまえさんは研いだまんまの包丁を使った」と、男はねっとりした口ぶりで言った。「研いだ包丁は水でしっかり晒(さら)してから使うものだろう? 水で晒さずに使えば鉄の匂いが移る。それくらいのことを知らないはずはないと思うんだが、どうだい?」
「相済みません、親方」主人は前掛けを外して頭を下げた。「人手が足りないもんで、ついつい雑なことをしてしまいまして」
「ちょっと待った」と、男は言葉を遮って言った。「人手がないからって客に鉄臭い刺身を食わせるくらいなら、店を閉めたらどうだ」
おいでなすったな、と房二郎は思った。
「おらあな、馬喰町(ばくろちょう)の文華堂(ぶんかどう)っていう瓦版屋の、木内桜谷(きうちおうこく)って者だ」と、男は言った。「こんどうちから、評判のいい小料理飲み屋の番付表を出すことになった。

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