『仮名がき女庭訓(かながきおんなていきん)』というのは、子守をするような子供たちにまで読ませるためのものですから、もっと普段の言葉(俗語)で書かなければ売れないと思うんですがね」
「普段の言葉と美しい文章のどこが違うんですか」と房二郎は言い返した。「教えていただきましょうか」
桜所は穏やかに微笑んだ。「あなたが道を歩いているときとか、居酒屋で耳にしたり話したりするときの言葉ですよ。こんなことは言うまでもないでしょうがね」
房二郎はカッとなったが、桜所のニコニコとした笑顔を見ると気勢をそがれ、怒鳴り返すこともできなかった。
桜所がゆったりとお辞儀をして部屋を出ていくと、房二郎は机に座り、気取った野郎だと舌打ちをした。
「人それぞれさ」と木内桜谷が言った。「桜所は桜所で、やっぱり生きていかなくちゃならないからな。それに――さっき桜所が言ったことは間違っちゃいない。お前さんは気を悪くするかもしれないが、こういう仕事はもともとまともなものじゃないのさ。世間をだまして売り飛ばしてしまえばいい、という代物なんだよ。それくらいの原稿は二日か三日で片づけて、つまりはすぐに捨てられる(反故になる)つもりでやらなきゃダメなのさ」
「それが人間の仕事だろうか」
「それが世の中というものさ」木内はニヤリと笑った。「もう一度言うがね」
「わかったよ」房二郎は首を振って話を遮った。「沢茂で初めて君に会って、この文華堂に入れてもらったときに、その覚悟くらいはしていたんだ。けれども、こういう世界の中だって、少しはまともな仕事ができるんじゃないか。いや、こういう世界だからこそ、まともな仕事をしなくちゃいけないんじゃないか、と思ったんだよ」
「世の中はそんなに甘くないってことが、よくわかったわけだな」
「悲しいな」と房二郎は両手で顔を覆った。「だんだん自信がなくなってきたけれど、やれるところまでは記事屋を続けるつもりだから、どんなことにも慣れるようにするよ」
「危なっかしい話だな」と木内が言った。「やめておいたほうがいいんじゃないかな」
そこへ文華が入ってきた。
「いま桜所はんから聞いたんやけど」とちょび髭をなでながら、文華は房二郎に言った。「あんたの書いたもんは売り物にならんそうやな。どうなんだい?」
「そんなことはありませんよ」と木内が言った。「桜所さんには桜所さんの意見があるでしょう。けれども池さんの雅文調の原稿だって、売り出してみれば長く愛されるものになるんじゃないですか」
「記事屋の勘では、売れるかどうかの判断なんてできやしないさ」と鼻で笑うような口ぶりで文華は言い、房二郎の机の上から原稿を取り上げた。「――ちょっと読ませてもらいまっせ」
七
「えっ」と房二郎は顔を上げた。
「ウズラのたたきよ」とおるいが言った。「何をそんなに驚いているの」
「ああ、そうか」と彼は頭を振った。「いや、何でもない。このあいだどこかで、ウズラの串焼きができるって聞いたばかりだったからさ」
「小網町の沢茂っていうお店でしょ? その話はうかがったわ」
「ひどいもんだな、そんなことまでペラペラ喋ったのか」
「だから、あんまり酔っ払っちゃダメだって言っているでしょ。飲みたかったらここへ帰ってから飲めばいいのに。それなら酔いつぶれたって失敗しないじゃありませんか」
お膳の上には、あんかけ豆腐とウズラの吸い物、そしてお漬物が並んでいた。
彼はウズラの椀を取って一口食べ、「うまいな」と言ったが、あとは食べずにそのままお膳へ戻し、盃の酒をちびちびとすすった。「部屋の家賃もたまっているうえに、返すあてもないお小遣いまでもらって、こんなごちそうをのうのうと食べるなんて」と、房二郎はうなだれて、いかにも恥ずかしそうに言った。「おれはよっぽどまぬけなへちまの木だ。いっそ犬にでも生まれ変わりたくなったよ」
「あたしが好んでやっているんだから、自分を責めることなんかないじゃないの」
「それはおばさんの気持ちだろ」
「まあ、おばさんなんてかわいそうよ」と言ってから、おるいは二人の年の差に初めて気づいたとみえ、ほほえみながらうなずいた。「そうね、あなたとは七つも歳が違うんだもの、おばさんに違いはないわね」
「そんなつもりで言ったんじゃないんだ。ただ呼びようがないもんだからさ」
「いいのよ」おるいは美しい顔でまたニコッと笑ってみせた。「あなたはあまりに細かく気を使いすぎるわ。もっと気を楽にして、自分がしたいようになさるほうがいいのよ」
「悪いけれど、先に寝させてもらうよ」
房二郎はふらつきながら立ちあがり、おるいがいそいで「ちょっと待って」と言いながら、そばへ寄って支えた。
房二郎は少しよろめいて、おるいの肩につかまった。
そして自分の部屋へいくまでのあいだ、さりげなく、肩につかまっていた手をすべらせて、おるいの背中をなでた。
「ちょっと待って、そのままだと風邪をひくわよ」
着たままの格好で布団にもぐり込もうとする房二郎を、おるいは抱き止めながら言った。
「寝巻きを温めてあるの」とおるいは言った。「着替えてから寝てちょうだい」
「あとでね」彼は布団の中に潜り込んだ。「あとできっと着替えるよ、絶対にさ」
「あの肩にはおぼえがある」と房二郎はぶつぶつとつぶやいた。「小さくて柔らかな肩、しなやかで弾力のある背中の手触り――最初の夜はおぼろげだったが、二度目の晩にはこの前の女だとすぐにわかった。確かにあの肩、あの背中だった」
「なにを一人でボヤいているんだ」と木内桜谷が振り向いて言った。「まだ二日酔いが直らないのか」
「二日酔いにもいろいろあるんでね」房二郎は本の書き写しを続けながら言った。「世の中にはこんなにいろんな落とし穴があるとは知らなかったよ」
「そうやって少しずつ大人になるのさ」
「おれはいっそ、野良犬にでも生まれてくればよかったと思うよ」
「野良犬だってエサをあさるには苦労するぜ」
「横っ面を平手打ちされるようなもんだ」と房二郎は言った。「家出をしてからこっち、横っ面をはりたおされるようなことばかりだった。うんざりしたよ」
「そこいらから始まるんだな。苦みや甘みや辛みを、一つ一つ味わいながらな」と木内は言った。「あんたはやっと敷居をまたいだのさ」
「敷居だって?」
「大人の世界に足を踏み入れたってことさ」と言って木内桜谷は声を出さずに笑った。「房やんはウブだな」
「おまえさんの敷居や風がどんなふうだったかは知らない」と房二郎は言った。「けれどもおれのまたいだ敷居や、初めて吹かれた風は、おまえさんのものとは違うよ」
「みんなそう思うらしい」木内は書き物を続けながら言った。「人間ってやつは誰しも、初めての経験は自分だけのものだと思うものさ」
「そうしてだんだん驚かなくなるんだな」と房二郎は言った。「――そして、ああきれいだとか、哀れだとか、悲しい、痛ましいと感じることもなくなるんだろう。考えただけでもぞっとするよ」
「まだ自分の知らないことを考えると、恐ろしいような、いやらしいような、汚らわしく感じるものさ」と木内が言った。
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