初級翻訳・へちまの木 第12話

へちまの木

一昨日に返事があって、今日の夕方にはこっちに着いているはずなんだよ」
ちょび髭の前にペタッと這いつくばり、恥も外聞もなく情けない泣き言を並べ立てた木内桜谷の姿が、房二郎の脳裏にあらためて痛ましくよみがえりました。
「大丈夫さ」と、房二郎は言いました。「夫婦じゃないか。それに、わざわざ箱根まで働きに行って、あんたに仕送りをしてくれるような人だ。事情をちゃんとに話せば、わかってくれるさ」
「そういう女房だからこそ、余計に顔合わせができないんだ……。――いっしょに来てくれないか?」
房二郎はぎょっとして、「おれが?」と言い返してから、すぐにうなずきました。「いいよ、おれでよければいっしょに行こう」
「すまねえな、恩にきるぜ」
木内桜谷はよろめき、房二郎の肩にもたれかかりました。
房二郎は木内を支えるようにして歩き、ついにその長屋の門のところまでたどり着きました。
夜警が金棒をコツコツと突きながら通り過ぎ、どこかで犬がけたたましく吠えていました。
――長屋の門は開いていて、その両側がぼんやりと見えました。
どの家も灯りを消して真っ暗なのに、一軒だけ障子に、ひっそりと灯りがともっているのが見えました。
一度泊まったことがあるだけですが、あれは間違いなく木内桜谷の家でした。
房二郎には、その行燈の脇に小さな風呂敷包みが置かれ、しょんぼりと座っている女の姿が見えるような気がして、ぞっとしました。そして、桜谷を門口に寄りかからせると、「また会おうぜ」と言い残し、その場から逃げ出しました。
「あれも、人間の生活なんだな……」後ろから自分を呼ぶ木内の声をかき消すように、房二郎は歩きながら声に出してつぶやきました。「――へちまは、木にはならねえ、か。ひねくれて考えると、まるで自分のことを言われたみたいだな」
彼は冬の風の寒さに、ブルッと身を震わせました。
文華堂の夫婦、言葉の不自由な女中、小舟町のおるい、印刷部屋の三人、その他大勢の人々や街の景色が、いまは不思議なほど自分から遠ざかり、すっかり別の世界のように感じられるのでした。
「友達の中には、気楽に町人の暮らしに馴染んでいく奴もいたっけな」と、房二郎はつぶやきました。「だけど、おれには無理らしい。おれはそういう性質には生まれてこなかったみたいだ。しょうがない、本所の叔父さんのところへ行こう」
彼は体をかがめ、足を早めて、暗い街を大川のほうへと曲がっていきました。

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