初級翻訳・ジストマ退治の話 第1話

ジストマ退治の話

これまで自分の思い出話のようなものはあまり書かなかったけれど、私も今年で一人前の年齢になったことだし、これからはあまり遠慮しないで、そういう話も少し書いてみることにしよう。

もう十年以上も昔のことだが、私はとても妙な大病にかかって、あやうく死にかかったことがある。
それが今では、科学の力ですっかりきれいに治り、まわりから「ちょっと憎らしいくらいだね」と言われるほど、すっかり元気になった。
世間を見ていると、科学というものにあまり馴染みのない人たちほど、かえって科学の力をすごく信用しているようなところがある。
けれど、実際に科学を仕事にしている人間からすると、どうも機械の裏側や仕組みの粗が見えてしまって、あまり素直に信用しきれないところがあったりするものだ。
物理学などは、科学の中でも一番しっかりした方だとは思うけれども、それも今度の原子爆弾が本当に完成するまでは、どこか少し見くびっていたところがあった。
しかし、その原子爆弾のすさまじさには心底から驚かされたので、今では物理学のことを大いに尊敬している。
医学の方も、この頃はペニシリンだのストレプトマイシンだのといったすごい薬ができたおかげで、だんだんと世間の信用を高めてきている。
だけど十年前までは、西洋医学なんて、少し重い病気の患者にとってはあまり頼りにされていないようなところがあった。
その証拠に、昔は東京の真ん中に立派な大邸宅を構えた「心霊療法」のようなものが、ものすごく繁盛していたではないか。
もしお医者さんがどんな病気でもどんどん治してくれるなら、そんな怪しげなものが大流行するはずがない。
「人間の体というものは、あまりにも複雑をきわめていますから、人間の浅はかな学問の力などではどうにもできないのです。お医者さんはただ、自然に体が治っていくのを見守っているだけなのですよ」などと言おうものなら、「さすがは名医だ」ということになる。
それほど極端でなくても、とにかく少し大きくて哲学的なお話でも交ぜないと、世間の人たちはなかなか「名医」の仲間に入れてくれないものなのだ。
そんなふうだから、一般には物理学や化学の方がずっと信用されていて、近代医学の方は、少なくともごく最近まではあまり評判が良くなかった。
だけど、私はそれとは反対に、近代医学の力を原子爆弾よりも十年くらい前からすっかり信用していた。
理由はとても簡単で、自分の病気が近代医学のおかげで本当に治ったからだ。

話は蘆溝橋事件が起きる前、昭和十一年の古い昔にまでさかのぼる。
その年に、北海道大学に初めて「低温室」という部屋ができた。
私はそこで、ずっと前から狙っていた「雪の結晶を人工的に作る」という実験に、さっそく取りかかった。
ところが、幸いなことにというか運が悪かったのか、その実験がうまく進んで、二ヶ月も経たないうちに最初の人工雪が一つできあがったのだ。
だから私もちょうちょのように夢中になって、その実験にすっかり熱中してしまった。
しかし、運の悪いことに、それとちょうど同じ時期に妻の大病や、考古学を研究していた弟の死が重なってしまい、私もすっかり体を壊してしまった。
四月頃から胃の調子が悪くなり、ご飯を食べた後に胃がシネシネと痛むようになって、見る見るうちにひどく痩せてしまった。
そして、いつでも自分の胃袋の形や、そこにあることが自分ではっきりと分かるようになってしまい、それがなんとも嫌な気持ちだった。
だけどその年の夏には、イギリスから日食の観測班が北海道へやってきたのでその案内役をつとめなければならなかったし、さらに秋の日本軍の大演習のときには、昭和天皇陛下を低温室にお迎えして人工雪の実験をお目にかけるというものすごい大役があったので、無理をがまんしてずっと学校へ通い続けていた。
その合間に、登別温泉にある北大分院へも三週間ばかり入院して、「超短波」とかいう治療をうけてみたりもしたけれど、ちっともよくならない。
もっとも、それよりずっと前から内科や外科のお医者さんにいろんな検査や診断をしてもらっていたのだが、肝心の病名さえはっきりしていなかった。
結局、「胃潰瘍」「十二指腸潰瘍」「乾性腹膜炎」「慢性盲腸」という、なんと四つもの診断が下されて、「やれやれ、どうしたものか」ということになっていた。
お酒も、タバコも、コーヒーも、お肉も、すべて一切禁止。
毎日牛乳ばかり飲んでいたけれど、もちろんそんなことで良くなるような生易しい病気ではなかった。
ついに私はすっかりあきらめて、雪の結晶を天覧に供する大役がすんで間もなく、何もかも投げ出すつもりで、さっさと家財道具をまとめて伊豆の伊東へと引き上げてしまったのだった。

その頃の私は、物理学でさえあまり信用していなかったくらいだから、西洋医学なんてなおさら信用する気になれなかった。
結局のところ、のんびり温泉につかって、新鮮なお刺身でも食べるのが一番の治療法にちがいない、と思ったわけである。
あとから人伝てに聞いた話なのだが、ちょうどその頃、今の日立の中央研究所の所長をしている鳥山君が、まだ北大工学部の教授だった頃に、電気学会の会員たちを連れて低温室へ人工雪を見学しに来たことがあったそうである。
そのとき私が説明をしていたのだが、ステッキでやっとの思いで体を支えているような状態だったらしい。
あとで鳥山君がすごく驚いて、当時私と同僚だった茅君に「中谷君はあんな状態で大丈夫なのかい?」と、こっそり尋ねたのだそうだ。
この話は、私がすっかり元気になってから茅君が昔話として教えてくれたものだが、当時はよほどまわりの人たちに心配をかけていたらしい。

伊東へ引っ越してきてからの最初のうちは、体の調子がものすごく良かった。
伊豆の温泉と、南国の温かい太陽と、それに新鮮ですばらしい小魚たちが、私の体にふたたび生きる力を吹き込んでくれたような気がした。
その冬は案外元気に過ごすことができて、「やっぱり自然の恵みというものはありがたいものだなあ」と心からしみじみと感じ入った。
「やっぱり変な注射なんかよりも、こういう自然な生活に限るよ」と、西洋医学の方を勝手に軽く見て、自分ではなんだか大きな広い心で見ているつもりになっていたのだった。そしてヒマにまかせて、エッセイなどを気ままに書き散らしながら、南国のあたたかな冬を大いにほめたたえて、すっかりご機嫌で過ごしていた。
もっとも、お酒もタバコもコーヒーも相変わらず遠ざけて、おとなしく慎ましくしてはいた。
しかし、そうした自然の力に頼る療法にも、やはり限界というものがあるらしく、次の年の春になっても、初めに期待していたほどには、ちっとも順調に回復しない。
夏になっても、相変わらず体の調子はよくないのだった。
もっともその頃になると、自分でもすっかりこの病気に慣れてしまっていたので、案外気楽なもので、時には東京へ出かけていくことさえあった。
しかし、ほかの人目から見ると、日増しに衰えていく私の姿は、なんとも痛々しくあわれに見えたらしい。

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