ある詩人の部屋のなかでのお話です。
だれかが、詩人のつくえの上にあるインキつぼを見て、こう言いました。
「こんなインキつぼのなかから、ありとあらゆるお話や詩が生まれてくるんだから、本当にふしぎだなあ! 今度は、いったい何が飛びだしてくるんだろう? いやあ、まったく不思議なものだよ」
「そうなのよね」と、インキつぼが言いました。
「それが、あたしにはどうしてもわからないの。いつも言っていることなんだけどね」
インキつぼは、ガチョウの羽でできたペンや、そのほか、つくえの上にのっている、耳のある仲間たちにむかって言いました。
「このあたしのなかから、どんなものでも生まれてくるんだと思うと、本当に不思議な気持ちになるわ。ちょっと信じられないくらいよ! 人間があたしのなかからインキをすくいだそうとするとき、今度はどんなお話が出てくるのか、あたし自身にもわからないの。あたしのなかから、たった一しずくすくいだすだけで、それだけで紙の半分は書けちゃうのよ。おまけに、その紙の上には、どんな世界だってえがきだすことができるの。本当に、不思議でたまらないわ!
あたしのなかから、詩人さんのすばらしい作品がぜんぶ生まれてくるのよ。読んでいる人が『あ、これどこかで見たことがある!』って思うくらい、生き生きとえがきだされている登場人物や、胸がジーンとするような気持ち、それから、くすっと笑えるユーモアや、美しい自然のようすもね。……と言っても、本当はあたし、『自然』ってものが何なのかは知らないんだけどね。だって、外の景色なんて一度も見たことがないんだもの。だけど、あたしのなかにそれがあることだけは、まちがいないわ。あの、身のこなしがかるくて美しい女の子たちのグループも、鼻からあわをふくくらい元気な荒馬にまたがった、いさましい騎士のペール・デヴァーやキルスデン・キマーも、みんな、あたしのなかから生まれてきたし、これからも生まれてくるのよ。もちろん、あたし自身がそれを知っているわけじゃないけれど。だいいち、あたし、そんなこと考えたこともなかったわ!」
「たしかに、あなたの言うとおりですね」と、羽ペンが言いました。
「あなたは、頭を使って考えるということをしませんからね。もしもあなたが、ちょっとでも考えてみたらどうでしょう。そうすれば、あなたから出てくるものは、ただの黒い液体だってことくらい、すぐにわかるはずですよ。あなたがその液体を分けてくれるからこそ、わたしは言葉をしゃべることができるんです。わたしの心のなかにあるものを、紙の上に見える形にすることができるんですよ。つまり、書き写すというわけです。いいですか、実際に文字を書くのはこのペンなんです。これだけは、どんな人間だってうたがいませんよ。それなのに、詩のことになると、たいていの人間は、あなたみたいな古いインキつぼと同じくらいのことしか考えていないんですから、困ったものですねえ」
「まだ世の中のこともろくに知らないくせに!」と、インキつぼが言い返しました。
「あなたなんて、やっと一週間くらい働いただけで、もうペン先が半分すり減っちゃっているじゃない。それなのに、自分では詩人になったつもりでいるのね。あなたなんて、ただのお手伝いさんよ。あたしはね、あなたがここに来る前に、もうずいぶんたくさんのあなたの親戚たちを使ってきたのよ。ガチョウの羽ペン一族も、イギリスの工場からやってきた金属のペンもね。羽ペンだってスチールのペンだって、どっちのこともよく知っているわ。だって、本当にたくさん使ってきたんだもの。でも、あの詩人さんが――そう、あたしのために働いてくれるあの人間のことよ――あの人がやってきて、あたしのなかからすくい出したものを紙に書きだすようになれば、これからもっともっとたくさんのペンを使うことになるわ。それにしても、今度あたしのなかから最初に出てくるのは、いったいどんなお話かしら?」
「ふん、ただのインキのたるのくせに!」と、ペンは言いました。
その日の夜おそく、詩人が家に帰ってきました。詩人は音楽会に行っていたのです。
世界的に有名なバイオリンの名手による、すばらしい演奏を聴いて、すっかり感動し、頭のなかはその音楽のことでいっぱいでした。
バイオリン弾きが楽器から引き出したのは、本当に信じられないほど素晴らしい、美しい音の流れでした。
それは、サラサラと音を立てて流れる水のしずくのようにも、真珠と真珠が優しくぶつかり合う音のようにも聞こえました。
また、あるときには、たくさんの小鳥たちが声を合わせて楽しそうに歌っているようにも聞こえました。
そうかと思うと、モミの木の暗い森のなかを、あらしが激しく吹き荒れるようにも聞こえました。
詩人は、自分の心のなかが感動で泣いているような気がしました。けれどそれは、美しい女性の歌声でなければ、とうてい表現できないような、うっとりするメロディーだったのです。
ただバイオリンの弦だけが鳴っているのではありません。弦をささえる木の部分も、ネジも、バイオリンの箱全体も、みんながいっしょになって響き合っているようでした。本当に、びっくりするほど素晴らしいことでした。
その曲は、とても演奏するのが難しいものでした。でも、見た感じでは、まるで遊んでいるみたいに、弓が弦(げん)の上をあちこちスイスイと動きまわっているだけに見えました。
これくらいなら、だれにだってマネできそうなくらいです。
バイオリンが勝手に鳴って、弓も勝手に動いて、まるでこの二つだけで音楽を奏(かな)でているみたいでした。
聞いている人たちは、それを演奏して、音楽に命や魂(たましい)を吹きこんでいる「バイオリンの名人」の存在を、すっかり忘れてしまっていました。
そうなんです。その名人のことを、みんな忘れていたのです。
けれども、詩人は今、その音楽家のことを思い出していました。
詩人はその人の名前をつぶやくと、自分の感じたことをこんなふうに書きとめました。
「もしも弓とバイオリンが、自分の力だけで音を出しているんだと自慢(じまん)しはじめたら、それは本当におかしなことだ。
でも、私たち人間も、よく同じような間違いをしてしまう。
詩人も、芸術家も、学者も、そして将軍(しょうぐん)だってそうだ。
私たちは、つい自分の力だと自慢してしまう。
――けれど、私たちはみんな、神様が演奏なさる楽器にすぎないのだ。
神様にだけ、栄光(えいこう)あれ! 私たちには、だれ一人として、いばれることなんて何もないのだから」
詩人はこう書き残すと、たとえ話として「名人と楽器」というタイトルをつけました。
「いやあ、お見事(みごと)にやられましたね、奥さん」と、ペンはインキつぼと二人きりになったときに言いました。
「たった今、詩人さんが読み上げたのは、わたしが書き上げた文章ですよ。ちゃんと聞いていましたかな?」
「ええ、あたしがあなたに分けてあげた、インキのおかげでね」と、インキつぼは言い返しました。
「あれは、あなたのいばりすぎを、おしおきするための一撃(いちげき)よ。
あなたって、自分がからかわれていることにも気づかないのね。
あたしは心の底から、あなたにガツンと言ってあげたのよ。
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