初級翻訳・レモンの花の咲く丘へ 第11話

レモンの花の咲く丘へ

ああ、ああ、あの夜のあまりにもすさまじく、神秘に満ちあふれていた様子と言ったら……空の光に迷うフクロウの声、海の波間でピカッと光る夜光虫、遠い遠い沖の方から、何者ともしれない響きがかすかに起こり、しばらくしてピタリと鳴り止むと、あたりはシンと静まりかえります。
……ちょうど今夜のように、まわりがひそやかに感じられる晩でございました。(間、あたりを見回す)ちょうど今夜のような晩で。
(海の遠くから波の音が聞こえてくる)
女子 (あたりを見回し)体がぞくぞくと寒くなってまいりました。
なんと恐ろしいお話でございましょう。
……本当に今夜は、気味の悪い晩でございますこと。
……そして、なんだか得体の知れないものが、どんどん迫ってくるような気がします。
……
公子 あの晩はちょうど今夜のように、部屋にはあかりが一つもなく、窓の外ばかりが青い海の底のように冴えわたった、沈んだ光に取り囲まれておりました。
じっとしていると、すぐ背後から何か恐ろしいものが迫ってくるのではないかと感じられて、そっと振り返ってみたくなるような、おびやかされる晩でございました。
ちょうど今夜のように……
女子 (ハッと驚いて背後を振り返り)ああ、もう、そんなことはおっしゃらないでくださいませ。
私はもう、気絶してしまいそうに思えてなりません。
……あの、そして、それからお母様はどうなられたのでございますか。
お母様の運命が、一刻も早く知りたいような気がしてなりません。
……それに、なんだか私の運命が、あなたのお母様の運命とよく似ているように思えてしまうのは、どうしてなのでしょうか。
……ただ、なんとなく、そのように感じられて……。
公子 それは、あなたにも私のお母様と同じような誘惑が忍び寄っているからではないでしょうか。
(あたりを見回す)ああ、本当に今夜は、あの晩によく似た夜でございます。
(フクロウの鳴き声が聞こえる)ほら、フクロウも鳴いているではありませんか。
女子 (胸に手をあてる)悪い運命を連れてくるような、嫌な鳥の声でございますこと。
……しかも今夜に限って、あんなふうに鳴いているなんて。
……お母様は、それからどうなされたのですか。
若様。
公子 母の姿が岩の頂上に立つのを窓越しに見たのが、最後の眺めとなりました。
(間)翌日、母の白いご遺体が、海の面にプカプカと浮かんでおりました。
あおむけになって水に浮いている様子は、まるで人魚そのものでございました。
(間)オシドリが浮かぶはずの海の上に、人魚のご遺体が浮かんでいたのです。
(間)なんとおそろしい誘惑ではありませんか。
(間)紫の上着を着て、月桂樹の冠をかぶり、銀の竪琴を持った、騎士のような姿の音楽家こそが、その誘惑の主なのでございますぞ。
女子 私は……そのお話を聞いているうちに、なんだか自分の運命が、すぐ目の前まで迫ってきたような気がしてまいりました。
(入口のすき間をのぞき見て)私には、あの入口の背後に、騎士の姿をした音楽家がじっと立っているように思えてなりません。
あの扉が今にも開いて、その人が光り輝く魔法の瞳で私の目を釘付けにしてしまうのではないかと、怖くてたまらないのです。
(公子は急いで入口へ行き扉を開ける。廊下から薔薇色の光が差し込む)
公子 ただ赤い光が差しているだけで、誰もいませんでした。
(そう言って女子のそばへ戻る)
女子 (部屋の中を見回し)どうして今夜に限って、この部屋にはあかりが一つもないのでしょうか。罪を犯す人は光を恐れると言いますが、私たちが罪を犯しているわけではないのに。
公子 いいえ、あなたのためなら、私はどんな罪だって犯してみせます……人を殺すことさえも。
女子 そんな恐ろしいことをおっしゃるものではありません。
人を殺すということは、自分自身を殺すのと同じではありませんか……。
(しばらく音がなく、二人は顔を見合わせる。
突然、公子は女子の手を取り、女子はそれを振り払おうとするができない。
公子は取った女子の手を唇にあてようとする。
部屋の奥から、ふと笑い声が聞こえてくる。
女子は捕らえられた手をパッと振りはなす)
女子 あっ、笑い声が聞こえます。
公子 まさか、私たち二人を笑っているわけではないでしょうに。
女子 いいえ、私はそんなことを気にかけているのではありません。
あの笑い声の中に……。
(うっとりと夢見心地になり、笑い声がした方へ二、三歩歩み寄る)
公子 (女子を支えながら)あの笑い声の中に……。
女子 はい、あの人の笑い声が混ざっているのではないかと思いまして……。
公子 あの人とは……。
女子 私の大切な人です。
公子 (熱を込めて)大切な人……。
女子 愛しくて、愛しくてたまらない人でございます。
公子 それは一体誰のことですか?
女子 赤い薔薇を送ってくれた人。
公子 ええ。
女子 はい、紫の上着を着て、月桂樹の冠をかぶり、銀の竪琴を持った、騎士の姿をした音楽家のことでございます。
公子 (怒りを込めた口調で)あなたを魔道へと導く誘惑だと知りながら……それが誘惑の主だとわかった今でも、なおその人のことがそんなに恋しいのですか。
女子 どうしようもなく、恋しくてたまらないのです。(悲しげに)まるで恋しく思わなければいけない義務でもあるかのように……。
公子 恐ろしくは思わずに。
女子 恐ろしさと恋しさとが、今は一つになりました……。
恐ろしいのか恋しいのかも、もうわかりませぬ。
公子 ああ、貴女は……呪われた女ですぞ。
(力強く)私はこう申します、貴女は呪われた女だと。
女子 紫の上着を着て、月桂樹の冠をかぶり、銀の竪琴を持ったあの人……。
(とすすり泣く)
公子 (しばらく胸に手を組み、それからじっと女子を見る。
怒りを込めて)――お聞きなさい!
女子 はい!
公子 私は決心いたしました。
絶対に貴女をあの誘惑者の手には渡しません。
女子 いいえ、そんな……。
公子 聞きなさい! 私は必ず、貴女を救い出してみせますぞ!
女子 いいえ、それは……はい、そんなの到底ムダなことでございます……。
私の心は、あの赤い薔薇の花から離れることはできないのです……。
暗闇の中で、罪の手に育てられた血塗られた薔薇の花!(そう言って赤い薔薇に唇をあてる)
公子 (窓の外の月を見つめながら)あの月がいったん沈み、やがて再び昇ってくる頃、貴女は私のものだ。
女子 明日の晩のことなのでございますか。
公子 明日の晩の今頃には、月桂樹の冠とともに、貴女は私のものになっている。
ああ、明日の晩に私が弾くバイオリンの曲は、死んだ母と、この私しか知らない「死に行く人魚」の歌なのだ。
あの歌には母の思いが込められている。
(間)あの歌を、明日の晩は音楽堂で弾くのだ。
そして勝負に勝つ。
そして貴女を私のものにするのだ。
(力強く)私が弾くロ短調のバイオリンの曲は、この世のすべての楽器に打ち勝つだろう。
(奥の方で大勢の笑い声、そして様々な楽器の音……やがて明かりを手にした、先ほどの使女二人が左の入り口から入ってきて、公子に丁寧に礼をしてから女子に向かう)
使女A お嬢様、まだこちらにいらっしゃったのですか。

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