初級翻訳・レモンの花の咲く丘へ 第10話

レモンの花の咲く丘へ

公子 
その怪しげな音楽家は、いったいどのような姿をしておりましたか?

(思い当フシがあるという様子で)

女子 (ためらうことなく)
紫色の長い上着を着て、月桂樹の冠をかぶり、銀の竪琴を持った、若く美しい騎士の姿でございました。

公子 (思わずガバッと立ち上がりながら)
ああ、それは、本当にはっきりと、紛れもなく恐ろしい誘惑でござりますぞ!
私はあえて誓って申します。
あれは世にも恐ろしい魔の誘惑であると……!
……私の死んだ母親も、まさにその誘惑のせいで、不貞の女となってしまったのですから!

女子 (驚きに目を見張りながら)
あなたのお母様が……!?

公子 
決して嘘は申しませぬ。
紫の上着を着て月桂樹の冠をかぶり、銀の竪琴を持っているあの騎士姿の音楽家なら、間違いなく、我が母を狂わせた憎き仇(かたき)に違いありません!女子 (身をふるわせながら)私はなんだか、ぞっとして恐ろしくなりました。どうか教えてください、あなたのお母様はどうなられたのですか。
公子 どうか私の言うことを信じてください。
(力を込めて)母はあの恐ろしい男のために、不貞の罪を犯してしまったのです。
そしてそれが原因で、母は命を縮めることになってしまいました。
……思い出しても恐ろしい、そして憎んでも憎みきれないあの悪魔め……悪魔め、悪魔め!
女子 それだけでは、私にはよくわかりません。
もう少し詳しくお話ししてくださいまし。
(間)ああ、私の胸のなかまで、なんだか冷たくなってきました。
まだ聞いていないというのに、そのときの様子がありありと目の前に浮かんでくるようです。
公子 (少し落ち着きを取り戻し、窓の方へ歩いていって音楽堂を眺める。
夕日が沈み、空はすっかり暗くなっている。
月から光が昇ろうとしているのが見える)ああ、日が暮れてしまった。
(物思いにふけりながら女子の顔をじっと見つめ、力を込めて語り始める)今、音楽堂が建っている対岸の岩の上には、十年ほど前、小さなお城のような立派な屋敷が建っていたのです。
(娘も窓辺に行き、音楽堂を眺める)そのお城で、若い領主は美しく、そして心清らかな女性を妻として、八年間そこで幸せに暮らしていました。
その女性はバイオリンの名手でした。
(間)それが、ほかでもない私の母なのです。
(間)二人の間がどれほど幸福だったか、その仲の良さがどれほどまわりの人たちをうらやましがらせたか、わざわざ言わなくてもあなたにはおわかりでしょう。
近所の人たちは、「あの小さなお城の下の海には、仲のいいオシドリの夫婦がいつも浮かんでいるみたいだね」とうわさし合ったほどでした。
――なぜなら、二人がよく小舟を出して、お城の下の静かな海原を仲良く漕ぎ回っていたからです。
(間)母はまるで、海からあがってきた白い人魚のようでした。
いつの間にかまわりの人たちは、母のことを「人魚、人魚」と呼ぶようになり、母自身もしまいには自分のことを「私は人魚なんだ」と言うようになってしまったのです。
(間)人魚はよく歌を歌いました。
その歌は「死に行く人魚」という名前の、なんとも切なく悲しい歌でした。
その歌の大体の意味は、こういうものだったのです。
――海の底の都に、一人の人魚の姫が住んでいました。
ある日の夕暮れ、ふと海の表面へ顔を出してみると、すぐ目の前に赤い帆を掲げた舟が浮かんでいました。
舟の先には一人の美しい公子が立っていて、人魚にクスッと笑いかけ、手に持った銀の竪琴をかき鳴らしながら、うっとりするような誘惑の歌を歌ったのです。
その歌声が人魚の耳に届いたとき、人魚は海の都のことなどすっかり忘れ果て、その公子のことが好きでたまらなくなってしまったのです。
(間)人魚は公子の乗っている舟を追いかけました。
(間)舟はどんどん、地平線のほうへとすべっていきます。
公子はその舟の先頭で、ますます声高らかに誘惑の歌を歌い続けます。
(間)人魚が追いかければ追いかけるほど、舟はますます遠ざかり、青白い月が海の上に昇り、死人のような不気味な水の色が海面をすっぽり包み込んだとき、人魚も舟も地平線の向こうへ隠れて見えなくなってしまいました。
(間)そして人魚は二度と海の都へは帰ってこず、海の都の者たちは、行方不明になった人魚のことを「あいつは浮気心を出して逃げたんだ」と言って憎みました。
……歌の意味はおおむねそのようなものでしたが、母はいつもこの歌ばかりを歌っていたのです。
(長い沈黙)今思えば本当に恐ろしく、そして不思議なことでした。
まさにその人魚姫の悲しい運命が、そっくりそのまま母の身の上にふりかかってきたのです。
(と言いながら窓の外を見る。月の光が水のきらめきのように窓から差し込んでいる。
これより少し前、二人の召使いの女たちが戻ってきたが、女子と公子が真剣に話し込んでいるのを見て、何かひそひそと言い合って部屋から退場した)
公子 その悪い運命の呪いが、母の身にのしかかったその晩も、(間)ああ、今夜のような青白い月の出た夜でした。
まるで、亡くなる人に着せる経帷子(きょうかたびら)にホタルの光がぼんやりと映っているような、なんとも不気味な夜でした。
ああ、ちょうど今夜のような夜に――(女子は体をブルッとふるわせる。冷たい風が吹き抜ける)母がベッドから突然、むっくりと起き上がりました。
(間)そのとき、すぐ傍で寝ていた八歳の私に、ちらりと横目を向けただけで――それは母が私にくれた、最後なつかしいまなざしとなりましたが――。
母は寝巻姿のままで、家所の裏庭へと歩み出たのです。
ふらふらと歩くその姿は、まるで夢の中を歩く人のようで、やさしい肩から垂れていた上着が、夜空の光で透き通るほど白く見えました。
(間)母は裏庭の細道をトボトボと歩いていきましたが、そのときの母の姿は、今でも私の目に焼き付いて離れません。
肘までむき出しになった、まるで象牙(ぞうげ)細工のように白い両手を前にグッと突き出し、つま先立ちをして歩いているのです。
長いすそは道の露に濡れて、袖のまわりは夜風に煽られて、パタパタと激しく翻(ひるがえ)ります。
母が歩いていく道には真紅のケシの花が長い茎の先で咲いており、その花がゆらゆらと揺れて、まるで母の行く手を心配しているかのように見えました。
(間)母が両手を前に突き出している様子は、まるで目に見えない何かを必死につかまえようと焦っているように見えたので、私は窓越しに母の行く先を見つめましたが、そこで私は心底から驚いたのです。
(間)なんと、一人の騎士の姿をした音楽家が、月の光を全身に浴びたまま、いかにも誇らしげに堂々と立っているではありませんか。
(間)夜目にもそれとハッキリわかったのは、あの紫の上着と、月桂樹の冠と、そして銀の竪琴でした。そして銀の竪琴をかき鳴らしながら、母を海辺へと導いていくのでございます。
竪琴の曲は、聞き間違えるはずもない、短嬰ヘ調で始まる「暗と血薔薇」の曲でございました。
(間)やがて母の体は、その音楽家の両手の中にすっぽりと包まれました。
(間)二人は抱き合ったまま、海に臨む断崖へと登っていくのです。

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