ちゃんと、お母さんにそう言ってから行かにゃ」
「そんなこと言ったら、絶対行かせてくれないもん」
「そうだなァ、ほんとうにその通りだわ。
まちがいないね」
おばんはふるえるような力の入らない笑い声で笑って、
「でもさ、なにがなんでもお米(ごはん)だけは食べていかんと、体に毒だよ」
そう言われてコトエは、先生の家でごちそうになったキツネうどんを思い出した。
思い出すだけでよだれが出てくるほど美味しかったキツネうどん。
お腹がペコペコだったからこそ、キツネうどんの美味しさは何倍にもなってコトエの舌に焼きついていた。
その後も彼女は、何度もキツネうどんの話をしては大石先生を思い出し、先生を思い出してはあのキツネうどんを思い浮かべたものだった。
思いがけず先生がやってきた今、彼女はまた、あの遠い道とキツネうどんを思い出しながら尋ねたのだ。
あんな遠い道を、歩いて来るの? と。
しかし、コトエでなくても、子どもたちは今日の先生を、ふたたび自分たちの学校へ戻ってきたものと考えていた。
だれもが今日でお別れだなんて思ってもいない様子を見ると、先生は、上陸した最初の瞬間に今日の本当の目的をはっきりさせるべきだったと思った。
お別れにきたのよ……
そう叫びながら船を降りたら、すぐにみんなもそんな雰囲気だと気づいただろうにと、あとになって悔みながら、コトエの言葉にしがみつくようにして、ゆっくりと言ったのだった。
「ねえ、遠い遠い道でしょ。
そこを、ひょこたん、ひょこたんって、足を引きずって歩いていくと、すぐに日が暮れちゃうでしょ。
だからね、もう歩いては来られないの、ダメなのよ」
それでも子どもたちには、まだ先生の本当の気持ちがピンとこなかった。
網元の森岡正(もりおかしょう)が、正らしい頼もしい考えで言った。
「そんなら先生、船で来ればいいじゃないか。
ぼくが毎日、迎えに行ってあげるよ。
一本松くらい、へのかっぱさ」
正は最近ひとりで櫓(ろ)がこげるようになり、それが自慢でたまらなかったのだ。
先生も思わずニコニコしながら聞き返した。
「本当? じゃあ、夕方はまた、お家まで送ってくれるの?」
「うん、なあ?」
うなずきながら後ろにいたソンキに同意を求めたのは、少し自分で言ってから不安になり、ソンキに加勢してもらいたかったらしい。
ソンキも、こくんとうなずいた。「そう、ありがとう、でも、困ったわ。
もっと早くそれがわかってたらよかったのに、先生もう、学校やめたの」
「…………」
「今日は、だからお別れにきたの。
さよなら、いいに」
「…………」
みんなだまっていた。
「べつのおなご先生が、すぐきますからね、みな、よく勉強してね。
先生、とっても岬を好きなんだけど、この足じゃあ仕方がないでしょ。
また、よくなったら、くるわね」
みんな一せいにうつむいて先生の足もとを見た。
早苗が目に一ぱい涙をため、それをこぼすまいとして、目を見ひらいたままきらきらさしている。
感情をなかなかことばにしない早苗のその涙を見たとたん、先生の目にも同じように涙がもりあがってきた。
と思うと、きゅうに蜂の巣にでもさわったように、わあっと泣きだしたのはマスノだった。
するとコトエやミサ子や、気の強い小ツルまでが、しくしくやりだした。
泣き声の合唱である。
岬分教場の古びた門札のかかった石の門の両側に、大きな柳と松の木がある。
その柳の木の下で、三十四、五人の生徒にとりまかれて、女先生もまたかまうことなく涙をこぼした。
マスノの音頭があんまり大げさだったので、吉次や仁太まで泣きそうになり、それをがまんしているふうだった。
大きな生徒のなかにはおもしろそうに見ているものもいた。
職員室の窓からその光景を見ていた男先生は、古ぐつの先革だけをのこした上ばきをつっかけてとんできたが、わけをきくと、
「なんじゃあ、おなご先生がせっかくおいでたんだから、笑うてむかえんならんのに、みんなはでに泣くじゃないか。
さ、どいたどいた。
おなご先生、早く中へおはいりなさい」
しかしだれひとり動こうとはせず、しくしくつづけた。
「やれやれ、女子と小人はなんとかじゃ。
泣きたいだけ泣いてもらお。
泣きたいものは、なんぼでも泣け泣け」
古ぐつの上ばきをぱっく ぱっく音させて男先生が去りかけると、はじめてみんなは笑いだした。
泣け泣けといわれたのがおかしかったのだ。
始業の板木が鳴りわたり、いよいよ今日の勉強もはじまるわけだ。
そのはじめに別れのあいさつをして帰るはずの大石先生であったが、別れのことばをいったあと、なにかに引っぱられるようにして、一、二年の教室へはいった。
久しぶりの女先生に、みんなうきうきした。
「じゃあ、この時間だけ、いっしょにべんきょうしてお別れにしましょうね。
算数だけど、ほかのことでもいいわ。
なにしよう?」
はい はい と手があがり、まだ名ざしをしないうちにマスノが、
「唱歌」
と叫んだ。
歓声と拍手がおこった。
みんなさんせいらしい。
「浜で歌うたう」
わあっと、また、ときの声があがる。
「せんせ、浜で歌うたう」
マスノがひとりで音頭をとっている。
「じゃあ、男先生にそいって、浜まで送ってきてね。
船がまってるから」
パチパチと拍手がおこり、机ががたがた鳴った。
男先生に相談すると、それならみんなで送ろうということになった。
びっこの大石先生をとりまくようにして十二人の一年生が先頭を歩いた。
一ばんしんがりの男先生は、怪我の日以来ほこりをかぶっている女先生の自転車を押していった。
道で出あった村の人も浜までついてきた。
「こんどは、泣きっこなしよ」
大石先生はひとりひとりの顔をのぞきながら、
「さ、指きり、マアちゃんも泣かないでね」
「はい」
「コトやんも」
「はい」
「早苗さんも」
「はい」
これだけが一ばん泣き虫だから、これだけ指きりしたから、もうだいじょうぶ――
ひとりひとりの小さな指にちかいながら、浜へくると、仁太が大声で、
「なに、歌うん?」
と、マスノの顔を見た。
「蛍の光だ、そりゃあ」
男先生がそういったが、一年生はまだ蛍の光をならっていなかった。
「そんなら一年生も知っとる歌、『学べや学べ』でもうたうかい」
男先生はじぶんの教えた歌を聞いてもらいたかった。
しかしマスノがいち早く叫んだ。
「山のからす」
彼女はよほど「山のからす」がお気にいりらしかった。
そしてもう、まっさきに、うたいだしたのだ。
山のからすが もってきた
あかい小さな じょうぶくろ
まだやっと一年生なのに、彼女の音頭とりはなれきっていた。
天才とでもいうようなものであろうか。
ちゃんと、みんなをあとについて歌わせる力があった。
あけてみたらば 月の夜に
山がやけそろ こわくそろ
村の人も大ぜい集まってきて、あいさつをした。
大石先生もいっしょに歌いながら、船にのりこんだ。
へんじかこうと 目がさめりゃ
なんのもみじの 葉がひとつ
くりかえし歌って、いつかそれもやみ、しだいに遠ざかる船にむかって呼びかける声も細りながら、いつまでもつづいた。
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