初級翻訳・二十四の瞳 第18話

二十四の瞳

「せんせえ――」
「また、おいでえ」
「足がなおったら、またおいでえ」
「やくそく したぞォ」
「や く そ く し た どォ」
 最後に仁太の声が響いて、あとはもう、言葉のあやふやな響きもわからなくなった。
「かわいらしいもんじゃのう」
 船頭さんに話しかけられて、はじめてハッと現実に引き戻されながらも、先生の目は、まだそこに名残惜しそうに立ち去りかねている浜辺の人たちから離れなかった。
「ほんまに、みんな、それぞれ、えい人ばっかりでのう」
「昔から、一筋縄ではいかん難しい村じゃというけんどのう」
「そうよの。
そんな村だからこそ、一度気心が知れ合えば、ものすごく人が良くてねえ」
「そんなもんじゃ」
 強い日差しと海風に顔をさらしたまま、もう胡麻粒ほどにしか見えなくなった人たちの姿とともに、岬の村を心の中にしっかりと焼き付けるように、先生はいつまでも浜から目を離さなかった。
櫓(ろ)の音だけが響く海の上で、子どもたちの歌声が耳によみがえり、あのつぶらな目の輝きはまぶたの奥からいつまでも消えなかった。

五 花の絵

 海の色も、山の姿も、そっくりそのまま昨日につづく今日であった。
細長い岬の道を歩いて本校に通う子どもの群れも、毎日同じ時刻に同じ場所を通っていくのだが、よく見ると顔ぶれの何人かが変わり、そのせいなのか、みんなの表情もまわりの木々の新芽のように新鮮なことに気がつく。
竹一がいる。
ソンキの磯吉もキッチンの徳田吉次もいる。
マスノや早苗もあとから歩いてきている。
この新しい顔ぶれによって、物語のはじめから、もう四年の年月が流れ去ってしまったことを知らなければならない。
四年。
その四年の間に、「一億同胞」という大きな時代の流れの中での彼らの生活は、彼らの村の山の姿や、海の色と同じように、いつも通り穏やかにつづく毎日だったのだろうか。
彼らは、そんな難しいことは考えていない。
ただ自分たち自身の喜びや、自分たち自身の悲しみの中から、子どもたちはすくすくと育っていった。
自分たちが大きな歴史のうねりの中に置かれているとも知らず、ただ伸びるがままに伸びていた。
それは激しい四年間だったけれど、子どもたちのうちの一人でも、そんな時代のことについて深く考えていただろうか。
みんな、まだあまりにも幼かった。
しかも、こうした幼い子どもたちには手の届かないところで、歴史は着々とつくられていたのだった。
四年まえ、岬の村の分教場へ入学するその少し前の三月十五日、そしてその翌年に彼らが二年生に進級したばかりの四月十六日には、人間の解放を叫び、日本の政治や社会の改革を考える新しい思想に対して政府による厳しい弾圧が加えられ、同じ日本国内のたくさんの人たちが牢獄へと閉じ込められた。
そんな大人たちの事情を、岬の子どもたちは誰も知らない。
ただ彼らの頭にこびりついて離れなかったのは、「不況(ふきょう)」ということだけだった。
それが世界中の経済とつながっているものだとも知らず、ただ誰のせいでもなく世の中がお金持ちになれず、節約しなければならないんだということだけが、子どもたちにもはっきりとわかっていた。
その不況の中で、東北や北海道の大飢饉(ききん)のことをニュースで知り、子どもたちは一人一銭ずつの募金を学校へ持っていった。
そうした中で満州事変や上海事変が次々と起こり、何人もの若い兵隊たちがこの岬の村からも戦地へ送り出された。
そういう激しい世の中の動きのなかで、幼い子どもたちは麦めしをもりもり食べて、いきいきと元気に育った。
この先、自分の前途に何が待ち構えているかなんとも知らず、ただ体が大きくなっていくことがただただ嬉しかった。
五年生になっても、みんなが憧れるような真新しい運動靴を買ってもらえないことを、「人間の力ではどうしようもない不況のせいだ」と子どもなりにあきらめ、昔ながらのわらぞうりに満足していた。そして、それがちょっとでも新しいものだと、それだけで彼らの気持ちはウキウキした。
だからこそ、クラスでただ一人だけ、森岡正(もりおかただし)が本物のズック靴を履いているのを見つけると、みんなの目は一斉にそこに注がれて大騒ぎになった。
「わァ、タンコ、靴がピカピカ光っとる!
ああ、まぶしっ!」
 そう言われるより前から、正は気恥ずかしくなっていた。
こんな靴を履いてこなければよかったと後悔するほど、恥ずかしかったのだ。
女の子のほうでは、靴を履いていたのは小ツル(こつる)一人だけだった。
その靴は、足を一歩踏み出すたびにぶかぶかと脱げそうになった。
小ツルはとうとう、そのズック靴を手で持って裸足になり、うらめしそうに自分の靴をしげしげと眺めた。
それを見た六年生の女の子が、自分のぞうりと取り替えてやりながら、大きな声で言った。
「まあ、十文半(じゅうもんはん)のサイズなんて、これじゃあ私にとっても大きすぎるわい!」
 お母さんはおそらく、これから三年間くらい足が大きくなっても履けるようにと大きめのを買ってやったのだろうけれど、小ツルはもうすっかり懲り懲りしていた。
やっぱり、自分の足にぴったりのぞうりのほうがよっぽど歩きやすかったのだ。
ほっとした表情をする小ツルに、松江(まつえ)がニコッと笑いかけて言ったね。
「ねえ、コツやん、お弁当箱、まだここで温められてるんでしょ、ポカポカしていいなあ」
 そう言って、松江は自分の腰のあたりをポンとたたいてみせた。
「百合の花の絵のついたお弁当箱のこと?」
 小ツルが「いつそんなの買ったの?」という顔で聞き返すと、松江は急に自信なげな顔になって、
「ううん、それは明日、お父さんが街で買ってきてくれるの」
 そう言い終えてから、松江はハッと自分の言葉に驚いた。
たった三日前の出来事を思い出したからだ。
ミサ子もマスノも、フタにきれいな百合の花の絵が描いてあるピカピカのアルマイトのお弁当箱を買ってもらったと聞いて、松江もうらやましくてお母さんにずっとおねだりしていたのだった。「マアちゃんも、ミイさんも、百合の花の弁当箱買うたのに、うちもはよ買うておくれいの」
「よしよし」
「ほんまに、買うてよ」
「よしよし、買うてやるとも」
「百合の花のど」
「おお、百合なと菊なと」
「そんなら、はよチリリンヤへたのんでおくれいの」
「よしよし、そうあわてるない」
「ほたって、よしよしばっかりいうんじゃもん。
マッちゃん、チリリンヤへいってこうか」
 それではじめて彼女の母はしんけんになり、こんどはよしよしといわずに、少し早口で、
「ま、ちょっとまってくれ、だれが銭はらうんじゃ。
お父つぁんにもうけてもろてからでないと、赤恥かかんならん。
それよか、お母さんがな、アルマイトよりも、もっと上等のを見つけてやる」
 そういってその場を流されたのだが、松江のためにさがしだしてくれたのが、古い昔の柳行李の弁当入れとわかると、松江はがっかりして泣きだした。
今どき柳行李の弁当入れなど、だれも持っていないことを、松江はしっていたのだ。

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