世の中の不況は父の仕事にもたたって、大工の父が、仕事のない日は、草とりの日ようにまでいっているほどだから、弁当箱一つでもなかなか買えないこともわかっていた。
しかし松江は、どうしてもほしかったのだ。
ここで柳行李をうけいれたら、いつまでたっても百合の花の弁当箱は買ってもらえまいということを、松江は感じて、ごねつづけ、とうとう泣きだしたのである。
しかし母親もなかなかまけなかった。
「不景気なんだから、ちっとがまんしい。
来月になって、景気がよかったら、ほんまに買おうじゃないか。
なあ、マツはいちばん大きいから、もっと聞き分けいでどうすりゃ」
それでも松江はしくしく泣いていた。
いつやむともしれないほど、しんねり泣きつづけるのは、よほどの思いにちがいない。
そのままつづけばいつやむともしれぬ泣きぶりであったが、やがて、泣くどころではないことがおこった。
彼女の母は、きりっとした声でいった。
「マツ、弁当箱はきっと買うてやる。
指きりしてもええ。
そのかわりおまえ、産婆さんとこへ、ひとっ走りいってきてくれや。
大急ぎできてつかあされ、いうてな。
行きしなに、よろずやのばあやんにも、ちょっときてもろてくれ。
こんなはずないんじゃけんど、おかしいな」
あとのほうはひとり言のようにいって、納戸にふとんをしきだした母親を見ると、さすがに松江も泣きやみあわてて家をとびだした。
小さいからだをツブテのように走らせながら、彼女の心には一つのたのしみがふくらんできた。
それは指きりしてもよいといった母のおぼえ書きのようなことばだった。
産婆さんの家は本村のとっつきにあった。
帰りは途中まで自転車にのせてくれ、少し上り坂のところまでくると、年とった産婆さんは自転車をとめ、
「おまえは、ここでおりてくれ。
一刻も早ういかんならん」
松江はこっくりして、自転車のあとから走った。
自転車はみるみる遠ざかり、すぐに山の中へ消えていった。
大石先生の自転車いらい、女の自転車もようやくはやりだして、今ではもう珍らしくはなかったが、それだけに走りさった産婆さんの自転車を見て、毎日朝早く起きて、てくてく、町まで歩いて仕事にゆく父親にも、自転車があれば、どれほど助かるかと、ふと思った。
走って帰ると、もう赤ん坊は生まれていた。
いそがしそうに襷がけで水をくんでいたよろずやのおばさんは、松江を見るなりいった。
「マッちゃんよ、お前、えらかろうが、大いそぎで釜の下たいておくれ」
バケツのまま釜に水をあけてから、小声で、
「こんまい女の子じゃ。
月たらずじゃといな。
でも、ええじゃないか、なあマッちゃん。
また女でお父つぁんはうんざりしようけんど、女の子はええ。
忠義はできんけんど、十年もたったら、マッちゃんじゃって、どない出世するかしれたもんじゃない」
なんの意味かよくわからぬまま、松江は釜の下をたきつづけた。
母親になにかことがあると、年よりのいない松江の家では、小さいときから松江がかまどに立たねばならなかった。
それから三日目、はじめて弁当をもって本校へゆく松江は、納戸にねている母親に注意されながら、湯気の出ている御飯を釜から弁当箱につめた。
「お父つぁんのは、両行李ぎゅうぎゅうにつめこんであげよ。
お前のは軽くいれてな、なにせ、大きい弁当箱じゃもん。
梅干は見えんほど御飯の中に押しこまにゃ、ふたに穴があくさかい」
血の道がおこりそうだといって、しかめ顔に、手ぬぐいではちまきをしてねている母を、幼い松江は気にもかけず、
「お母さん、百合の花の弁当箱、ほんまに買うてよ。いつ買うてくれるん?」
「お母さんが、起きれたら」
「おきれたら、その日に、すぐに?」
「ああ、その日に」
松江はうれしくて、今日借りてもってゆく父親のアルミの弁当箱の大きさも気にかからなかった。
松江ぐらいの女の子なら、三人分はゆうにはいる大きな、深い弁当箱が、小学校の教室ではどれほどこっけいにみえるかを、彼女は考えなかった。
柳行李よりはそのほうがよいと思ったのだ。
それどころか、からだにつたわってくる弁当のぬくみは、彼女の心をほかほかと温めつづけていていた。
小ツルの問いに、思わず、明日と答えたけれど、明日は買ってもらえない。
しかし、あさっては買ってもらえるかもしれないと考えると、彼女はひとり笑えてきた。
こんな、温かい気持で出かけていった松江であった。
松江にかぎらず、みんな何かしらうれしがっていた。
マスノは新らしいセーラー服をきて自慢らしかったし、コトエはおばんの作っておいてくれたぞうりの鼻緒に赤いきれのないこんでいるのがうれしそうだった。
まるで大学生の着るようなこまかいさつまがすりの袷をきせられている早苗は、赤いはっかけ(すそまわし)を気にして、ときどきうつむいて見ている。
じみなその着物を人に笑われないうちに、早苗の母はいったのである。
「なんと、じみすぎておかしいかと思うたら、赤いはっかけでひきたつこと。
そんでまた、これが早苗に似合うというたら。
この着物きたら、かしこげに見えるわ。
裾にちろちろ赤いのも見えて、みごとい、みごとい。
よかったァ」
これだけほめられると、早苗は正直にそれを信じこんだ。
着物をきているのはコトエと二人だけで、コトエもまた母親のだったらしい黒っぽい、飛び模様のある綿めいせんをきていた。
本裁そのままらしく、腰あげも肩あげももりあがっている。
しかし彼女のじまんは、先鼻緒に赤いきれのついたぞうりの方だった。
藪のそばの草むらを通るとき、コトエだけは、ふっと、大石先生を思いだし、一本松のほうを見た。
「小石先生!」
親しく、心の中でよびかけたつもりなのに、まるでそれが聞こえたかのように、小ツルがよってきた。
「小石先生のこと、知っとん?」
「なに?」
知らないとわかると、こんどは早苗に、
「知っとん? 早苗さん」
小ツルは大声で、ぐるぐると見まわし、
「みんな、小石先生のこと、知っとるか?」
ニュースは、いつだって小ツルからである。
みんなは思わず小ツルをとりまいた。
得意の小ツルは、れいのとおり篠で切ったような細い目を見はり、見はってもいっこうひろがらない目でみんなを見まわし、
「小石先生な、あのな、エイコトコトコトコンペイト」
そしてマスノの耳にくしゃくしゃとささやいた。
二人だけの自慢にしようとしたのに、マスノはすっとんきょうに叫んだ。
「わあ、嫁さんにいったん!」
小ツルは、まだあるんだとばかりに、
「な、ほてな、あのな」と、わざとゆうゆうになり、「シンコンレンコン(新婚旅行)なあ、おしえてやろうか」
「うん」
「うん」
「こがつくとこ。
んがつくとこ。
ぴがつくとこ。
らがつくとこ」
「わかった、こんぴらまいり」
「そう」
わあっと声があがった。
百メートルほども先になった上級生の男の子たちがふりかえったが、そのままいってしまうと、みんなもとっとと、そのあとを追いながら、口だけはやかましく小石先生の噂をした。
それはおとといのことで、昨日小ツルの父が聞いてきた話だということもわかった。
初級翻訳・二十四の瞳 第19話
二十四の瞳
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