「下士官になればな、曹長までは平気でスイスイ出世できるんだって。おまけに下士官はちゃんとお給料ももらえるんだぞ」
正には、そこに堂々とした出世の道が見えているようでした。
すると竹一(たけいち)も、負けじと声を張り上げて言いました。
「ぼくは幹部候補生になるもん。タンコ(正のあだ名)になんか負けるもんか! すぐに少尉になってやるんだから!」
吉次(きちじ)や磯吉(いそきち)は、うらやましそうな顔をして二人を見つめていました。
竹一や正のように、その日の暮らしに困らない家庭の息子たちとは違って、吉次や磯吉が家で戦争についてどんな話を交わしているのか、知るすべもありません。それでも、黙っていたって、やがて彼らも同じように兵隊として連れていかれる運命にあったのです。
その春(昭和八年)、日本が国際連盟を脱退して世界の仲間はずれになったということに、いったいどんな意味があるのか。近くの町の学校の先生が牢獄に入れられたことと、その出来事がどうつながっているのか。子どもたちは、それらのいっさいを知る自由を奪われていました。いや、奪われているという事実さえ気づかされないまま、田舎の隅々にまで行き渡った好戦的な空気に包まれて、少年たちは英雄になる夢を見ていたのです。
「どうしてそんなに、軍人になりたいの?」
正に尋ねてみると、彼はまっすぐ、包み隠さずに答えました。
「ぼく、家のあととりじゃないもん。それに、漁師をするよりよっぽど下士官のほうがかっこいいもん!」
「ふーん……。じゃあ、竹一さんは?」
「ぼくはあととりだけどさ、ぼくだって、ただの米屋さんより軍人のほうがいいもん!」
「そう、そうなの……。まあ、よく考えなさいね」
おいそれと自分の意見も言えない窮屈さを感じながら、先生はあとは黙って男の子たちの顔を見つめるしかありませんでした。
すると正は、何かを感じ取ったのか、不思議そうにこう言いました。
「先生、もしかして軍人がきらいなの?」
「ううん、私は漁師や米屋さんのほうが好きよ」
「ええっ! どうして?」
「だって、戦争で死んじゃうのは、すごく惜しいもの」
「なんだ、よわむしだなあ!」
「そうよ、よわむしよ」
当時のことを思い出すと、今でも胸がムシャクシャしてきます。
たったこれだけの会話を交わしただけで、教頭先生から注意されてしまったのですから。
「大石先生、なんだか『アカ(共産主義者)』だという噂が立っていますよ。気をつけないと危ないですぞ」
――ああ、「アカ」っていったいどういうことなのだろう?
こんなにも世間のことを知らない自分が、どうして「アカ」なんて言われなければならないのだろう――。
夜、布団の中でずっとそんなことを考え続けていた大石先生は、思い切って茶の間に向かって声をかけました。
「お母さん、ちょっといい?」
「はいよー」
立ち上がってはこず、襖(ふすま)越しに返ってきたのは、火鉢のそばで作業をしながらうつむいたままの声でした。
「ちょっと相談があるの。こっちに来てよ」
パタパタと足音が近づき、襖が開きました。お母さんは指ぬきをはめた手を見つめたまま言いました。
「なんだい。……わたしね、もうつくづく学校の先生なんていやになっちゃった。三月で辞めちゃおうかしら」
「辞めるって? いったいどうしたんだい急に」
「学校を辞めて、駄菓子屋でもやっているほうがよっぽどマシよ。毎日毎日、忠君愛国、忠君愛国って……」
コラッ、となんてこと言うんだ、とお母さんは顔をしかめました。
「いったいお母さんは、どうしてわたしを教師かなんかにさせたのよ、本当に!」
「まあ、人のせいにするんじゃないよ。お前だって、自分の意思ですすんでなったじゃないか。『お母さんのような苦労はしたくない。二の舞いをふみたくない』って言ってさ。まったく、老眼鏡をかけながら他人の縫い物ばかりする人生なんて、お母さんだごめんだよ」
「そのお針仕事のほうが、まだマシよ! 一年生から六年生まで、わたしはわたしなりに一生懸命やってきたつもりよ。なのにどうよ。男の子たちの半分以上が軍人になりたいなんて言うんだもの、本当にいやになっちゃった」
「今の世の中の時節柄じゃないか。お前が駄菓子屋になったところで、戦争が終わるわけでもあるまいしねえ」
「余計にいやだわ、そんなの! おまけに、お母さんの止めも聞かずに船乗りの旦那なんか選んじゃって、わたし損したわ。最近みたいに防空演習ばかりやらされると、船乗りの嫁なんて寿命が縮まるわよ。嵐でもないのに、敵にドカーンとやられて若くして未亡人なんて、絶対に御免だわ!
いっそのこと、今のうちに船乗りなんか辞めてもらおうかしら。二人で百姓でも何でもやってみせるわよ。せっかく可愛い子どもが生まれるっていうのに、わたしは自分の子どもに、わたしと同じような苦労や悲しみを絶対にさせたくないんだもん! 学校の先生、明日でも辞めていいよね?」
早口でまくし立てる娘を、お母さんはニコニコしながら聞いていましたが、やがて、まるで幼い子どもをたしなめるように穏やかに言いました。
「お前は本当に、なんでもかんでもすぐ人のせいにするんだから。自分の好きで結婚してもらった旦那じゃないか。お母さんこそ、あのときは文句を言ってやりたかったんだよ。『わたしたちと同じ船乗りの嫁なんて、二の舞いをふむことになるんじゃないか』ってね。
だけど、久子(ひさこ)が心の底から気に入った相手なら仕方がないって、諦めて許したんだ。それを今さらなんだい」
「『好き』と『船乗り』は別よ! とにかくわたし、学校の先生はもういやなの!」
「まあ、自分の好きなようにしなさいよ」今は気が立ってるんだから」
「気なんか立っていないわ」
学校にいるときとはだいぶちがう、家でのお母さんのような、あるいは一人の女性としての先生だった。
しかしそのわがままな言い方のなかには、人の命をいとおしむ優しい気持ちがあふれていた。
やがて気持ちを落ち着かせて、ふたたび学校へ通うようになったものの、新学期のふたを開けてみると、大石先生はもう学校から送り出される(辞めさせられる)人となっていた。
惜しんだりうらやましがったりする同僚の先生もいたが、とくに引きとめようとはしなかった。それは、大石先生のことがなんとなく世間で目立ち、ちょっとした問題になっていたからだ。
それなら、いったいどこに問題があるのかと聞かれても、だれひとりとしてはっきり答えることはできなかった。
大石先生自身はもちろん、自分がなぜそんなふうに言われるのか知らなかった。
あえて言うならば、生徒たちが大石先生にとてもよく懐いていた、というようなことくらいだったかもしれない。
その朝、七百人の全校生徒の前に立った大石先生は、しばらく黙ってみんなの顔を見まわした。
だんだん涙でぼやけてくる目のなかに、新らしい六年生の一番うしろに立って、一心にこちらを見つめている、背の高い仁太の顔がそれとわかると、思わず涙があふれ、用意していたお別れのあいさつが出てこなくなった。
まるで仁太が全校生徒の代表であるかのように、仁太の顔に向かっておじぎをするようなかたちで、壇をおりた。
初級翻訳・二十四の瞳 第29話
二十四の瞳
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