初級翻訳・二十四の瞳 第4話

二十四の瞳

三・四年生のクラスがさっさと教室へ入っていったあと、大石先生はしばらく両手を叩きながら、そのリズムに合わせて子どもたちに足踏みをさせ、うしろを向いたまま教室へと導いた。
ここでようやく、自分を取り戻したようなホッとするゆとりが心の中に湧いてきた。
席に落ち着くと、出席簿を持ったまま教壇から降りて、
「さあ、みんな、自分の名前を呼ばれたら、大きな声でお返事するんですよ。
――岡田磯吉(おかだいそきち)くん!」
背の順に並んだせいで一番前の席にいた、小柄な岡田磯吉は、一番最初に自分が呼ばれたことにもドキドキして気後れしてしまったうえに、生まれて初めて「くん」なんて呼ばれたものだからびっくりしてしまい、返事がのどにつかえて声が出なくなってしまった。
「岡田磯吉くん、いませんか?」
あたりを見回すと、一番うしろの席の、まわりより飛び抜けて大きな男の子が、びっくりするほどの大きな声で答えた。
「いるっ!」
「じゃあ、『はい』ってお返事するのよ。
岡田磯吉くん」
お返事した子の顔を見ながら、その子の席へ近づいていくと、二年生たちがどっと笑い出した。
本物の岡田磯吉は困ったようにその場でポツンと突っ立っている。
「ソンキよ、返事しなよ」
きょうだいらしく、よく似た顔をした二年生の女の子が、磯吉に向かって小声でけしかけている。
「みんな、ソンキって呼ぶの?」
先生に聞かれて、子どもたちはみんな揃ってうなずいた。
「そう、それじゃあ、磯吉のソンキさんね」
またどっと笑いが起きるなか、先生も一緒にクスッと笑いながら鉛筆を動かし、そのあだ名をも出席簿の隅に小さく書き加えた。
「つぎは、竹下竹一(たけしたたけいち)くん」
「はいっ!」と、りこうそうな男の子が返事をした。
「そうそう、はっきりと、とても上手ににお返事できたわね。
――そのつぎは、徳田吉次(とくだきちじ)くん」
徳田吉次が息を大きく吸い込んで、ちょっと間を空けたその瞬間、さっき岡田磯吉のときに「いる」と答えた子が、少し調子に乗ったような顔つきで、すかさず、
「キッチン!」
と大声で叫んだ。
みんながまたドッと笑い出したことで、相沢仁太(あいざわじんた)というその子はますますいい気になり、つぎに呼んだ森岡正(もりおかただし)のときも、「タンコ!」と怒鳴った。
そして、今度は自分の番になると、さらにいっそう大きな声で、
「はーいっ!」
と叫んだ。
先生は笑顔を浮かべながらも、少しだけたしなめるように言った。
「相沢仁太くんは、ちょっとおせっかいね。
声も大きすぎるわよ。
今度は、呼ばれた人がちゃんと自分で返事してね。
――川本松江(かわもとまつえ)さん」
「はい」
「あなたのこと、みんなはなんて呼んでるの?」
「まっちゃん」
「そう、あなたのお父さんは大工さんなの?」
松江はこっくりとうなずいた。
「西口ミサ子(にしぐちみさこ)さん」
「ハイ」
「ミキちゃんって言うんでしょ?」
彼女もまた首を横にふり、小さな声で、
「ミイさん、言うん」
「あら、ミイさんって言うの。
かわいらしいあだねね。
――つぎは、香川マスノ(かがわますの)さん」
「ヘイッ!」
思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえながら、先生はぐっと声を抑えて言った。
「『ヘイ』はちょっとおかしいわね。
『はい』って言いましょうね、マスノさん」
すると、またまたおせっかいな仁太が口をはさんだ。
「マアちゃんじゃ!」
先生はもうそれを無視して、つぎつぎと名前を呼んでいった。
「木下富士子(きのしたふじこ)さん」
「ハイ」
「山石早苗(やまいしさなえ)さん」
「ハイ」
お返事するたびにその子の顔にニッコリと微笑み送りながら、
「加部小ツル(かべこつる)さん」
と呼んだ瞬間、急にみんながわいわいと騒ぎ出した。
何事かと驚いた先生も、子どもたちが口々に言っている内容がわかると、香川マスノの「ヘイ」よりももっとおかしくて、若い先生はついにこらえきれず笑い出してしまった。
みんな口々にこう叫んでいたのだ。
カベコッツル、カベコッツル、壁に頭をカベコッツル!
勝ち気そうな加部小ツルさんは泣きもしなかったけれど、顔を真っ赤にしてうつむいていた。
そうこうしているうちに教室のざわめきもやっとおさまり、最後の片桐コトエ(かたぎりことえ)の出席をとり終えたときには、もう四十五分の授業時間はすっかり過ぎてしまっていたのだった。加部小ツルがチリリンヤ(腰に鈴をつけて、用足しをする便利屋)の娘であり、木下富士子が旧家の子どもであり、「ヘイ」と返事をした香川マスノが町の料理屋の娘であり、ソンキの岡田磯吉の家が豆腐屋で、タンコの森岡正が網元の息子と、先生の心のメモにはその日のうちにしっかりと書きこまれた。
それぞれの家業は豆腐屋とよばれ、米屋とよばれ、網屋とよばれてはいても、そのどの家もめいめいの商売だけでは暮らしが成り立たず、畑仕事をしていれば、片手間には漁師もやっている、そういう暮らしぶりは大石先生の村と同じだった。
誰もがみな、ほんのわずかな暇も惜しんで働かなければ生活できない村――だが、誰もがみな働くことをいとわない人たちであることは、その顔を見ればすぐにわかった。
この、今日はじめて一つの数字から教えこまれようとしている小さな子どもたちが、学校から帰ればすぐに下の子の子守りをし、麦搗きを手伝わされ、網曳きにまで連れていかれるというのだ。
働くことしか目的がないようなこの寒村の子どもたちと、自分はどのようにして心を通わせていけばいいのだろうかと思うとき、一本松を眺めて涙ぐんだあの感傷は、自分自身の未熟さに対する恥ずかしさでしかなかった。
今日はじめて教壇に立った大石先生の胸に、今日から初めて集団生活の輪に加わった十二人の一年生たちの瞳は、それぞれの個性できらきらと輝いて、ことさらに印象深く映ったのである。
この子どもたちの美しい瞳を、いったいどうして曇らせていいものだろうか!

その日、ペダルを踏んで八キロの道のりを一本松の村へと帰っていく大石先生のはつらつとした姿は、朝のときよりもいっそうおてんばらしく、村人たちの目に映った。
「さよなら」
「さよなら」
「さよなら」
すれ違う人みんなに元気に挨拶をしながら走ったが、返事を返してくれる人は少なかった。
たまに返事が返ってきても、だまってうなずくだけだった。
それもそのはず、村ではもう大石先生に対する批判の声があがっていたのだ。
――みんなのあだ名まで、わざわざ帳面に書き留めたそうな。
――西口屋のミイちゃんのことを、かわいらしいなんてほめたそうな。
――もうさっそく、ひいきしているにちがいない。
西口屋あたりが、何か品物でも持たせて先生にお世辞を使ったのかもしれん。
そんな噂話など露とも知らない大石先生は、小柄な体を軽やかに自転車に乗せ、村はずれの坂道にさしかかると、少し体を前かがみにして足に力をこめ、このやる気に満ちた気持ちを一刻も早く母親に語ろうと、ペダルを踏み続けた。
歩けば大したこともないような緩やかな坂道も、行きの下りは気持ちよく滑り落ちていったのに、その心地よさが帰り道ではまるで重い荷物のように足腰にのしかかってくる。

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