初級翻訳・二十四の瞳 第8話

二十四の瞳

そんなつもりはちっとも――」
「いいえ、だったらどうして人の災難を笑ったりなんかしたんですか。
そんなことなら、お上品に道路の掃除なんかしてもらわなくて結構です!
とにかく、わたしの家の前はほっといてください。
――まったく、自分の自転車が通れんからこんなことやってるんじゃないの、あほうらしい。
それなら、自分たちだけで勝手にやればいいんだわ……」
あとのほうはひとり言のようにブツブツつぶやきながら、あまりのことにびっくりして言葉も出ないでいる先生を残したまま、おかみさんはプンプンにおこりながら店へ引きかえしていきました。
そして、隣にいる川本の大工さんのおかみさんに、わざとらしい大きな声でこう言いました。
「あきれた人もあるもんだねえ。
ひとの大災難を聞いて、ケラケラ笑うような先生がいるなんてねえ。
いま、ガツンと文句を言ってやったよ!」
やがてこの話は、尾ひれがついて村じゅうに広がっていくにちがいないでしょう。
じっと立ったまま、二分間ほど考えこんでいた先生は、心配そうにまわりを囲んでいる子どもたちに気づくと、泣き出しそうな顔をごまかすように笑ってみせました。
でも、声だけはできるだけ明るく、こう言いました。
「さ、もうおしまい!
小石先生のしっぱいのお話はおしまい。
浜にいって、みんなで歌でも歌おうか!」
先生はクルッとまわれ右をして、みんなの先頭に立ちました。
その口もとは笑っているように見えましたが、ぽろんと大粒の涙をこぼしたのを、子どもたちが見のがすはずがありません。
「先生が、泣いとるよ」
「よろずやのおばあやんに、なかされたんだ」
そんな小さな話し声がきこえてきて、あとはひっそりと、みんなのぞうりの足音だけが響きました。
うしろをふりかえって、「泣いてなんかいないよ」と笑顔を見せようかと思った瞬間、また涙があふれそうになってきたので、先生はだまったままで歩き続けました。
このさい、無理に笑うのもよくないことなのだと、先生は心の中で思ったのです。さっき笑ったのも、よろずやのおかみさんがいうように、人の災難を笑ったというよりも、ほんとうのところは、マスノの身ぶりがおかしく、それにつづいて、押入れの連想は、一学期のある日の、仁太を思いだして笑わせたのであった。
「天皇陛下はどこにいらっしゃいますか?」
ハイ ハイ と手があがったなかで、めずらしく仁太がさされ、
「はい、仁太くん」
仁太はからだじゅうからしぼり出すような、れいの大声で、
「天皇陛下は、押入れの中におります」
あんまりきばつな答えに、先生は涙を出して笑った。
先生だけでなく、ほかの生徒も笑ったのだ。
笑いは教室をゆるがし、学校のそとまでひびいていったほどだった。
東京、宮城、などという声がきこえても、仁太はがてんのゆかぬ顔をしていた。
「どうして、押入れに天皇陛下がいるの?」
笑いがやまってからきくと、仁太は少々自信をなくした声で、
「学校の、押入れん中にかくしてあるんじゃないんかいや」
それでわかった。
仁太がいうのは天皇陛下の写真だったのだ。
奉安殿のなかった学校では、天皇陛下の写真は押入れにかぎをかけてしまってあったのだ。
仁太の家の押入れの壁が落ちたことは、それを思いださせたのであった。
若い女先生は、思いだすたびに笑わずにいられなかったのであるが、そんな言いわけをよろずやのおかみさんに聞いてももらえず、だまって歩いた。
涙がこぼれている今でさえ、その話はおかしい。
しかしそのおかしさを、よろずやのおかみさんのことばは、差し引きしてつりをとったのである。
浜にでて歌でもうたわぬことには、先生も生徒も気持のやりばがなかった。
浜におりると先生はすぐ、両手をタクトにして、歌いだした。
はるははよからかわべのあしに

「あわて床屋」である。
みんながとりまいて、ついて歌う。
かにが みせだし とこやでござる
チョッキン チョッキン チョッキンナ

歌っているうちに、みんなの気持は、いつのまにか晴れてきていた。
うさぎゃおこるし かにゃはじょかくし
しかたなくなく あなへとにげる

おしまいまで歌っているうちに、失敗した蟹のあわてぶりが、じぶんたちの仲間ができたようなおもしろさで思いだされ、いつかまた、心から笑っている先生だった。
「このみち」だの「ちんちん千鳥」だの、一学期中におぼえた歌をみんな歌い、「お山の大将」でひとやすみになると、生徒たちはてんでに走りまわり、おとなしく先生をとりまいているのは一年生の五、六人だけだった。
手入れなどめったにしない乱れた髪の毛を、うしろでだんごにしている女の子もいるし、いがぐりが耳の上までのびほうだいの男の子もあった。
床屋のない村では学校のバリカンがひどく役に立ち、それは男先生のうけもちだった。
髪の毛をだんごにしている女の子のほうは、女先生が気をくばって、水銀軟膏をぬりこんでやらねばならない。
さっそく、明日はそれをやろうと思いながら先生は立ちあがり、
「さ、今日はこれでおしまい。
帰りましょう」
はたはたとスカートの膝をはらい、一足うしろにさがったとたん、きゃあっと悲鳴をあげてたおれた。
落とし穴に落ちこんだのだ。
いっしょに悲鳴をあげたもの、げらげら笑いながら近よってくるもの、手をたたいてよろこぶもの、おどろいて声をのんでいるもの、そのさわぎのなかから、先生はなかなか立ちあろうとしなかった。
横なりに、くの字にねたまま、砂の上に髪の毛をじかにくっつけている。
笑ったものも、手をたたいたものも、だまりこんでしまった。
異様なものを感じたのだ。
つぶった両の目から涙が流れているのを見ると、山石早苗が急に泣きだした。
その泣き声にはげまされでもしたように「だいじょうぶ」といいながらやっと半身をおこした先生は、そうっと穴の中の足を動かし、こわいものにさわるようなようすで、靴のボタンをはずし右の足くびにふれたと思うと、そのまままた横になってしまった。
もう起きあがろうとはしない。
やがて、目をつぶったまま、
「だれか、男先生、よんできて。
おなご先生が足の骨折って、歩かれんて」
蜂の巣をつついたような大さわぎになった。
大きな子供たちがどたばたかけだしていったあとで、女の子はわあわあ泣きだした。
まるで半鐘でも鳴りだしたように、村中の人がとびだして、みんなそこへかけつけてきた。
まっさきにきた竹一の父親は、うつむいてねている女先生に近よって、砂の上にひざをつき、
「どうしました、先生」
と、のぞきこんだ。
しかし、先生は顔をしかめたまま、ものがいえないらしい。
子どもたちからきかされて、足のけがだとわかると、少し安心したようすで、
「くじいたんでしょう。どれどれ」
 足もとの方へまわり、靴をぬがせようとすると、先生はうっと声を上げて、ますます顔をしかめました。
靴のあとがくっきりと残るほど、先生の足首は、二倍もあるかと思うくらい大きくはれあがっていました。
血は出ていませんでした。
「冷やしたほうが、いいかもしれんな」
 すでに大勢集まっていた大人たちにそう言うと、徳田吉次のお父さんが、いそいで汚れた腰の手ぬぐいを海水でぬらして持ってきました。

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