「痛いですか、ひどく?」
かけつけた男の先生に聞かれて、女の先生はだまってうなずきました。
「歩けそうですか?」
また、うなずきました。
「いっぺん、立ってみるか?」
先生はだまったままです。
西口ミサコの家から、ミサコのお母さんが、うどんこと卵を練ったはり薬を布に広げて持ってきました。
「骨は折れてないと思いますが、早くお医者さんに行くか、もみ療治してもらったほうがいいですよ」
「もみ医者なら中町の草加(くさか)がいいだろう。
骨つぎもするし」
「草加より、橋本外科のほうが、そりゃあいいだろう」
口ぐちにいろんなことを言いましたが、何をどうするにしても、この岬の村には外科のお医者さんも、もみ療治のできる人もいませんでした。
たった一つはっきりしていることは、先生がどうやっても歩けないということでした。
あれこれ相談した結果、舟で中町まで連れていくことになりました。
漁師の森岡正の家の舟で、加部小ツルのお父さんと竹一のお兄さんが漕いでいくことに決まりました。
男の先生が付き添うことになり、女の先生をおんぶして舟に乗せました。
座らせたり、おぶったり、寝かせたりするたびに、がまんしている女の先生の口から、思わずうなり声がもれました。
舟が浜辺をはなれだすと、わあっと、女の子たちの泣き声が一斉にとんできました。
「せんせえー」
「おなごせんせえー」
声をかぎりに叫ぶ子もいました。
小石先生は身動きもできず、目をつぶったまま、だまってその声に送られていきました。
「せんせえー」
声はしだいに遠ざかり、舟は入り海のまん中へと出ていきました。
朝、まるで魔法の橋がかかったような海を、先生は今、痛さをこらえながら、帰っていくのでした。
三 米五合豆一升
十日すぎても、半月たっても、女の先生は姿を見せませんでした。
職員室の外の壁に立てかけてある自転車にはほこりがたまり、子どもたちはその周りにつどって、しょんぼりしていました。
もう小石先生は帰ってこないのではないかと心配する子もいました。
分校の生徒だけでなく、本校の生徒たちにとってもそれは同じでした。
先生の自転車がどれほど毎日の励みになっていたか、子どもたちはめいめい、長い道のりを歩くあいだにどれほど小石先生の姿を待っていたかを、先生に会えなくなってから初めて思い知ったのです。
村の人たちにとっても同じでした。
誰がどうというわけでもなく、これまで自分たちが不当につらく当たっていたことを、みんな心の中でひそかに悔いているようでした。
なぜなら、小石先生の評判が急によくなっていたからです。
「あの先生ほど、はじめから子どもたちに好かれた先生は、これまでいなかっただろうな」
「早く治ってもらわないと、困る。
岬の子どもたちが、先生を足の悪い子みたいにしてしまうようなことになったら、困るもんじゃないか。
あとに新しい先生が来なかったりしたら、なおさら困る」
「足が不自由になんぞ、ならなきゃいいがねえ。
若い身空で足がわるくちゃ、治ったとしても、これから先どんなに困るだろうなあ」
村の人たちは、こんなふうに女の先生の噂をしました。
そこには、どうしてももう一度この岬の学校へ来てほしいという願いがしっかりと込められていました。
来てもらわないと、本当に困るのです。
そして直接的に、もっとも困っていたのは男の先生でした。
小さな村の小学校では、音楽の時間は一週間に一度きりでした。
その一時間を、男の先生は持てあましてしまったのです。
女の先生が休みだしてから最初のうちは、これまでに習った歌をみんなで合唱させたり、歌のじょうずな子に独唱させたりしていました。
そうしてひと月ほどはそれでごまかせましたが、いつまでもそうばかりしていわけにもいかず、男の先生はついにオルガンの練習をはじめることになり、そのために毎日のように汗を流しました。
先生は声を張り上げて歌うのでした。
ヒヒヒフミミミ イイイムイ――
ドドドレミミミ ソソソラソ――と発音すべきところを、年配の男の先生はヒヒヒフミミミ――と歌うのでした。
それは昔、男の先生が小学校のときにならったやり方だったのです。
ミミミミフフふ ヒヒフミヒ――
音楽の時間は土曜日の三時間目と決まっていました。
うれしく楽しく歌ってさよならをし、日曜日にむかえるという楽しいはずの時間割だったのが、子どもにとっても先生にとっても、急につまらない土曜日の三時間目になってしまいました。
男の先生にとっては、なおさらでした。
木曜日ごろになると、もう男の先生は土曜日の三時間目のことが気になりだし、そのせいで急に気が短くなって、ちょっとしたことでも生徒にあたりちらすようになりました。
よそ見をしたと言っては怒鳴りつけ、忘れものをしてきた生徒を教室の後ろに立たせました。
「男の先生、このごろ、すぐ怒るようになったなあ」
「なんだか嫌いになっちゃったな」「どうしたんじゃろな」
子どもたちがふしぎがるその理由を、いちばんよく知っている男の先生の奥さんは、こっそり心配して、それとなく男の先生を助けようとしました。
金曜日の夜になると、奥さんは内職の麦稈真田(ばっかんさなだ:麦わら帽子用のひもを編む内職)の手をとめてオルガンのそばに立ち、先生をはげました。
「わたしが生徒になりますわ」
「うん、なってくれ」
小さな豆ランプがちろちろとゆらめきながら、オルガンと、二人の年老いた夫婦の姿をぼんやりと照らし出しているその様子は、もしも女の子がこれを見たら、ぞっとして震えあがりそうな光景でした。
闇と光が入り交じるなかで、先生と奥さんは声を合わせて歌いかわしていました。
「ヒヒヒフ ミミミ イイイムイ」
奥さんだけが歌い、それにオルガンの調子がぴったり合うようになるまでには、夜もだいぶふけていました。
村じゅうが一軒残らず寝しずまっているからこそ、かえって変に気をつかってしまうのか、奥さんは豆ランプを消してから足さぐりで部屋にもどりながら、ほうっと大きなため息をつき、ひそやかな声で話しかけました。
「おなごの先生も、たいそう苦労をなさっていましょうね」
「うん。
しかし、あちらの立場からすりゃあ、もっと大変な苦労じゃろうて」
「そうでしょうとも、あんたのオルガンどころの騒ぎじゃありませんわ。
大切な足を一本折られたんですもん」
「もしかしたら、大石先生はもう、ここへもどってこんかもしれんぞ。
先生ご本人よりも、あの母親のほうが、ものすごい剣幕だったもんな。
かけがえのない大切な娘ですさかい、二度とふたたび、あんな性根のわるい村へは、もう娘をやりとうありません、ってなもんだ」
「そうでしょうねえ。
しかし、こられんならこられんで、代わりの先生がきてくれんと本当に困りますな」
人にきかれたら大変だとでもいうような内緒話の小さな声でそう言いながら、奥さんはうらめしそうに、ちらりと海のむこうを眺めました。
一本松の村も静かに眠っているらしく、星くずのような遠い灯りがかすかにまたたいていました。
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