こんな夜ふけに、こんなにも苦労をしているのは自分たちだけなのだと思うと、なんだか女の先生のことがうらめしく思えてなりませんでした。
あれ以来、奥さんもまた一役買って出て、四年生と五年生の女子五人の裁縫を受け持っていたのです。
しかし、雑巾を縫うような裁縫の指導は、ちっとも苦労ではありませんでした。
まるで手まりでもかがるように、ていねいに針を刺していく様子を、一時間のあいだに交替で見てやればそれで済むからです。
けれど、唱歌だけは、どうやってもオルガンが難しいうえに厄介でした。
オルガンというのは、裁縫をするようには自分の手が思うように動かないからです。
それを一生けんめいに弾きこなそうとする男の先生の猛勉強ぶりは、奥さんにとって神々しいようにさえ感じられました。
十月だというのに、男の先生は額からたらたらと汗を流していました。
外へ声がきこえるのを恥ずかしがって、教室の窓はいつもしめきっていたため、余計に汗が流れたのです。
本来なら、先生なればオルガンくらい弾けて当たり前のはずでしたが、なにしろ小学校を出たきり、自分の努力ひとつでここまで教師になった男の先生としては、何よりもオルガンが一番の苦手でした。
田舎のこととて、どこの学校にも音楽専任の先生などいません。
どの先生も、自分が受け持っている生徒に、体操も唱歌もすべて教えねばならないのです。
そんな面倒なこともいやで、自ら願い出てこんなへんぴな岬へやってきたというのに、今になってオルガンの前で汗を流す羽目になり、先生はオルガンを思い切りたたきつけたいほど腹立たしく思っていました。
しかし、今夜は違いました。
奥さんひとりを相手の生徒にした練習とはいえ、弾き手と歌い手の調子がぴったり合うところまでいったのです。
そんなわけで、男の先生のほうはわりとごきげんでした。
そこで奥さんに向かって、少し鼻を高くして自慢げに言いました。
「おれだって、その気になって弾く気になれば、オルガンぐらいすぐに弾けるんだよ」
奥さんもそれに素直うなずきました。
「そうですとも、そうですとも」
大石先生が休んでから、明日はちょうど六回目くらいの唱歌の時間になります。
男の先生にとっては、明日の唱歌の時間が楽しみになってきたちほどでした。
「きっと生徒たちもびっくりするぞ」
「そうですねえ。
男の先生もこんなにオルガンが弾けるんだって知って、見直すでしょうね」
「そうだよ。
ひとつ、しゃんとした立派な歌を教えるのも必要だからな。
大石先生ときたら、なんだかあほらしくもない歌ばっかり子どもに教えとるからな。
『ちんちんちどり』だの、『ちょっきんちょっきんちょっきんな』だの、まるで盆踊りの歌みたいに、なんだか軟弱な歌ばっかりじゃないか」
「それでも、子どもたちはよろこんで歌っとりますわ」
「ふん。
しかし女の子ならそれもよかろうが、男の子にはふさわしくない歌だな。
ここらでひとつ、わしが日本の大和魂をふるいおこすような、そういう力強い歌を教えるのも必要だろ。
生徒は女の子ばかりじゃないんだからな」
奥さんの前でふんぞり返るように胸を張りながら、その勢いのまま、先ほどまで二人で練習したばかりの唱歌を口ずさみました。
「ちンびきのいわは、おンもからずゥ――」
「しっ、大きな声を出したら、外の人に気ちがいだと思われるわよ」
奥さんはびっくりして慌てて手をふりました。
そして、いよいよ迎えた翌日、唱歌の時間になっても、生徒たちはなんだのろのろとした足取りで教室にはいっていったのです。どうせ、今日もまたオルガンなしで歌わされるのだろうと思って、学校へ向かう足取りも軽くなかったのだろう。
小石先生なら、土曜日の二時間目が終わると、そのままひとりで教室に残ってオルガンを弾いていた。そして、三時間目の始まりを告げる板木(ばんぎ)が鳴ると同時に入場行進曲に切り替え、子どもたちの足を自然と浮き立たせながら、生き生きとした様子で教室へと導いてくれたものだった。
それがどれほど楽しい時間だったか、子どもたちはみんな、心のどこかでちゃんと分かっていた。
言葉には出せないけれど、それは確かに胸が躍るような嬉しさだったのだ。
だからこそ、小石先生が来なくなった今、言葉にはできないもの足りなさが、みんなの心のどこかにぽっかりと残っていた。
それをはっきりと自覚しているわけではないけれど、子どもたち全員がその寂しさを感じ取っていたのである。
「先生は聴き役にまわるから、みんな好きな歌をうたいなさい」
オルガンには目もくれず、男の先生はそう言うのだった。
歌えと言われても、オルガンが鳴らなければ歌はすぐには出てこない。やっと出てきても、なんだか調子っぱずれになってしまう。
ところが、今日は少し様子が違っていた。
教室に入ると、男の先生はすでにオルガンの前にきちんと腰かけて待っていたのだ。
女の先生とは少し調子が違ったけれど、ブブーッと、おじぎの合図の音もちゃんと鳴った。
子どもたちの顔に、「おや?」という驚きの色が浮かんだ。
二枚の黒板には、いつも女の先生がしていたように、右側には楽譜が、左側には今日習う歌が縦書きで書かれていた。
千引の岩(ちびきのいわ)
千引の岩は重からず
国家につくす義は重し
事あるその日、敵あるその日
ふりくる矢だまのただ中を
おかしてすすみて国のため
つくせや男児の本分を、赤心を(せきしんを)
漢字にはすべてふりがなが振ってある。
男の先生はオルガンの前から教壇へと歩み寄り、いつもの授業のときのように、先端にひっく(チョークなどを指す細い木の棒)を持った竹の棒で、一語一語を指し示しながら、この歌の意味を説明し始めた。
それはまるで修身(道徳)の時間ようだった。
いくら何度も、この歌の深い意味をとき聞かせても、それをすんなりと理解できる子どもはほんの数人しかいなかった。
一年生がまっさきに、それに続いて二年生が、がやがや、がやがやとおしゃべりを始めた。
三年生や四年生の間からも、こそこそ、こそこそとささやき声が起こった。
その瞬間、ピシッ! とひっく竹が鳴り響いた。
教壇の上の机を激しく叩いたのである。
とたんに、教室中のざわめきはピタリとやみ、鳩のような丸い目が一斉に男の先生の顔を見つめた。
男の先生はきびしく、しかしどこか優しさをこめて言った。
「大石先生は、まだ当分学校へ出てこられないということだから、これから男の先生が唱歌も教える。しっかり覚えるように」
そう言い終えると、男の先生は急いでオルガンのほうへ戻り、うつむきこんでしまった。
まるで、自分が唱歌を教えることを恥ずかしがっているかのように見えた。
しかもそのうつむいた姿勢のまま、男の先生は歌い出したのである。
「ヒ、ヒ、ヒ、フ、ミ、ミ、ミ、イ、イ、イ、ム、イ、はいッ!」
生徒たちは思わず急に吹き出して笑い出してしまった。
ドレミファを、男の先生は昔ながらの「ヒフミ」の読み方で歌ったのである。
しかし、いくら生徒たちに笑われても、今さら「ドレミファ」の音階できれいに歌う自信が男の先生にはなかった。
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