怪しき老婆
この物語は、昨年の秋の終わりごろ、九州のいちばん西のはずれにある「大村」というお城下町の、古い武家屋敷がならぶ通りでおきたお話です。
このあたりはもともと、昔はえらいお侍さんたちが住んでいた場所で、昔はちょんまげに刀をさした、お城へむかうお侍さんたちの往来でにぎわっていたことでしょう。
どの家も、百年、二百年と長い年月がたった古いお屋敷ばかり……。
けれどいまは、手入れもされずに生い茂ったケヤキやカシの古い木々に暗く囲まれて、だらだらと上り坂になっている石の坂道も、ほとんどが古びて朽ち果て、色あせた屋根瓦には青いコケがびっしり。昼間でもキツネが出てきそうなほど、ひっそりとしてさびしい場所でした。
おまけにきょうは、このさびしい屋敷町に、いっそう物悲しく霧雨がシトシトと朝から降り続いていて、つるべ落としの秋の日は、もうすっかりとあたりを夕闇に包み込んでいました。
そんな屋敷町の一角、坂道の木と木のすき間から見えるお城の石垣のそばに、まわりの景色を圧倒するほど立派な、りっぱな冠木門(かぶきもん)のあるお家がありました。
このお家のご主人は、よほどサザンカの花が好きなのか、門から玄関へ、玄関から広い庭の山へと、あたり一面にサザンカの古い木が生い茂っています。ちょうど咲きはじめた薄ピンクや白、そして真っ赤な花が、ぼんやり煙る秋の冷たい雨の中で、目がくらむほど美しく彩っていました。そして、門にかけられた真新しい木の看板には、「久住医院(くすみいいん)」と書かれていました。
「おや、あんなにほえているのは、うちの五郎丸(ごろうまる)のようだが……?」
久住博士は、夕ご飯のお箸をふと止めて、ふだんとはちがう犬の激しいほえ方に耳をすましました。
そのころ、いいえ、それよりも前から、この病院で飼っている番犬の五郎丸が、暗くなりかけた坂の下のほうの闇に向かって、ノドの奥から気味の悪いうなり声をあげていたのです。
犬のするどい鼻には、人間には見えない闇の中をうごめく、何か不気味な気配が感じ取れたのでしょうか。
だんだんと近づいてくるその気配に、五郎丸のうなり声はますます激しくなっていきました。
「ウウ、ウウ、ウォーッ! ウウ、ウヮン! ウヮン!」と、飛びあがったり、矢のように門のほうへ駆けだしたりと、気が狂ったかのようにものすごい勢いでほえたてていたのです。
なるほど! この犬がこんなにほえるのも無理はありません。歩いてきたのでしょうか? それとも煙のように忍び込んできたのでしょうか?
突然、白いすがたが、パッとこの暗い門の中に浮かび上がってきたのです。
さあ、この物語はこのあたりからはじまります。
それは、赤ちゃんをおんぶして、こんな寒い空の下なのに薄着の一枚服をきた、ひとりの老婆(おばあさん)のすがたでした。
しかもこのおばあさん、いったい足音もたてずに、どこからあらわれたのでしょう?
五郎丸がさっきから坂の下をめがけてうなっていたのを見れば、あの長い坂をのぼってきたにちがいありません。しかし、上るにしても下るにしても、ゴロゴロと石ころだらけの坂道を、足音ひとつ立てずに歩いてくるなんて、ふつうは絶対にできないはずなのです。
それを、このおばあさんは音ひとつ立てず、まるで突然あらわれる妖怪のように、門の中へすっと入り込んできたのですから、不思議としか言いようがありません。
しかも、おばあさんは四方八方にてきぱきと警戒するような視線をくばり、おんぶしている赤ちゃんのことも忘れてしまったかのように、不気味に目がギラギラと光っています。そして、ものすごく憎々しげに犬をにらみつけ、今にも五郎丸に飛びかかろうとするほどの荒々しい顔つきは、これが本当に人間の老婆なのかと疑ってしまうほどでした。
もうひとつ不思議なのは、この五郎丸という犬でした。
この犬は小馬ほどもある土佐産の大きな猛犬なのですが、ふだんはとても頭がよくて、むやみやたらにほえるような犬ではありません。ましてや、病気の人としてこの病院の門をくぐった人には、今まで一度もほりついたことなどなかったのです。
それが、このおばあさんにだけは、気が狂ったようにほえたてているのですから、このおばあさんの正体は、ただ者ではないと感じ取ったのかもしれません。
とにかく犬は、ふだんとはまったくちがって、キバをむき出しにして激しく怒り狂い、今にもおばあさんにかみつこうとしています。
おばあさんもまた、その恐ろしい顔つきからすると、この猛犬に飛びかかっていきそうな勢いです。
しかしその時、犬のほえ方があまりにもすさまじかったので驚いたのか、玄関の電気がパッと明るくなり、平松という看護婦さんが姿を現しました。そして、人力車の車夫である吉蔵(きちぞう)も、あきれ返ったような顔をして勝手口から飛びだしてきました。
その瞬間、さっきまでものすごく恐ろしい顔をしていたおばあさんが、ハッとしたようにおだやかな表情にかわり、
「しっ! しっ!」
とおとなしく、持っていた傘で五郎丸を追い払いはじめたのでした。「まァ、どうしたんでしょうね? あんなにほえて! 吉蔵さん、早く、追ってあげて……」
「これ五郎丸! てめえ、いいかげんにしねえかい! ほえるんじゃ、ねえったら! ふだんめったにほえねえのに、今夜にかぎって、どうしたってんだ! これ! やめろったら!」
「だめよ、そんなことぐらいじゃ! 早く、つれていってしばってよ」
「これ! もうだまれったら、だまんねえか!」
それでも犬は、必死になって、おさえた吉蔵の手をふりもぎり、地面をけって、なおも、老婆に立ちむかおうとしているのです。
そして、吉蔵にむりにひきずられ、毛をさかだてて、牙をならしている五郎丸のすがたは、もしこれが口がきけるものなら、
「あなたがたは、なにもしらないからわたしばかり叱っていますが、この婆アの正体をお知りになったら、それこそ、びっくり仰天してしまわれますよ」
と、無念がっていたのかもしれません。
ひきずられていく五郎丸を見ると、はじめて満足したように、老婆はニヤリとうすわらいをもらしましたが、やせおとろえて骨ばった顔、むきだした乱ぐい歯、それが玄関の灯影にうつってチラチラとゆれるものすごさは、まるで芝居の鬼面そっくり……。
ながめていた平松看護婦も、思わずゾッとして、背筋に氷のはしるような気持になりました。
それにしても、この老婆はなんとやつれているのでしょう。
まるで骨と皮ばかり……。
あぶらっけもない白髪は、雨にうたれてしずくをたらし、ボロボロのやぶれ傘をにぎったまっさおな手! 死人が墓場からさまよいでてきたかと、うたがわれんばかりのすがたです。
おまけに晩秋の、こんなしぐれのふるうすら寒い日に、洗いざらしの単衣ものをきて、たびもはかずに、素足にピチャピチャと、すりへらした下駄をつっかけ、このからだのどこから、いったい、猛犬の五郎丸におどりかかろうとするような、あんな気力がわきでるものでしょうか?
「ちょっくらうかげえやすけんど……久住先生のお屋敷は、こちらさまでごぜえやしょうか?」
「ハァ、久住はこちらですけど……あなたは?」
「おらがは東戸松在から、めえったもんでごぜえやす。
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