初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第2話

亡霊怪猫屋敷

……先生さまおいでやしたら、ちょっくらこの赤ン坊さみていただきてえと、思えやんしてな夜分におうかげえして、もうしわけねえでごぜえやすけんど……」
 思ったよりも、しっかりした口調で老婆はいいました。
「ご診察なら、内玄関のとなりに診察室の入口がありますから、そちらからおはいりになって、しばらくお待ちになってください。
……先生は今お食事中ですから」
 みてもらいたいという赤ン坊は、老婆の背中にスヤスヤとねむって、病人らしくもありませんでした。
このおばあさんのほうが、よっぽど病人だわ! と思いながら、奥へいそぐ途中で看護婦の平松は、朋輩の笠井という看護婦と、廊下ですれちがいました。
「とてもおっかない病人がきたのよ。
わたしゾッとしてしまったわ。
すまないけれど、診察室の入口へぞうきんをもっていってくれない? あの泥足であがられちゃ、やりきれないから」
 そうして、茶の間のほうへいそいでいきました。
「先生、患者さんでございますが……」
 院長の久住博士は、あかるい電灯の下で、夫人の頼子といっしょに、夕餉の箸をとっていられました。
こんなさびしい片田舎にすんでいるお医者といえば、どんな白髪の老先生かと、みなさんはお考えになるかもしれませんが、博士はそんな年をとったかたではありません。
まだ年も三十二、三、そうしていかにも学生あがりらしくキビキビとして、スポーツマンタイプの、そのくせどこかやさしそうな瞳がメガネの奥にまたたいていられます。
博士はついさいきんまで、東京大学医学部の、助教授までもつとめて、こんな田舎にうもれているような、ふつうありふれたお医者さんではけっしてないのです。
ただ、夫人の頼子が胸をわずらっていられるばっかりに、前途ある大学助教授の地位を、おしげもなくなげうって、転地療養かたがた、しばらく夫人の故郷近くのこの土地へきて、医院をひらいていられるかただったのです。
ですから美しい頼子も、一日もはやくじぶんの病気がよくなって、また東京へもどって、輝かしい学者としての道へ夫を専念させてあげたいと、そればっかりをねがっていました。
博士は、すこしはじぶんの勉強にもなるつもりで、ほんの数人の患者でもきてくれればけっこうだと、思っていられたのかもしれませんが、こんな田舎に、めずらしい名医がおいでになったといううわさが、人から人へつたわって、朝から晩まで患者がたえず、今では博士も、ろくろくからだのやすまるひまとてもないのです。
「これじゃあんまり繁昌しすぎて、ちとありがためいわくのようだね」
 と、夫人をかえりみて、悲鳴をあげられたくらいでした。いま看護婦から、このふしぎな患者のしらせをうけられて、このへんの貧しい百姓たちのうちでも、ことにみすぼらしい老婆で、このビショビショ雨のふる晩に、単衣もので赤ン坊をおぶってきたときいては、じぶんのつかれも忘れて、心から気のどくに感じられました。
「よし、すぐにいくよ。
……だいぶうすら寒いようだから、部屋をあたためておくように……」
「まァ、かわいそうに、そんなにぬれてるの?」
 と、夫人も美しい眉をひそめました。
しかし、博士や夫人のこんなやさしい心づかいも、それはまだこの老婆をひと目も見ていられないからで、その老婆というのは、はたして博士夫婦が、これほど憐みをかけるにふさわしい人間だったのでしょうか?
 ただ、老婆の正体を、するどい嗅覚で見やぶったらしい五郎丸だけが、つながれながらも、あいかわらず猛りたっているらしく、また家人に警戒をうながすように、しきりに遠ぼえしているのが夜のしずけさをやぶって、ぶきみにきこえてきました。
奇怪な眠り

「や、おまたせしました……」
 と、博士は部屋にはいると、まず平松看護婦が記しておいたカルテをとりあげました。
熱三十八度二分。
脈、百三十……。
住所、東彼杵郡東戸松村字白上二二三番地。
津田まさの孫よし子二歳。
「ほほう、これはたいへんだね……」
 と博士は、カルテをながめて、びっくりされました。
博士がびっくりされたのは、赤ン坊の容体でもなければ、またこの老婆のことでもありません。
じつはこの患者の住所が、あまりにも遠いのにおどろかれたのです。
この老婆のすんでる東戸松村というのは、博士のすんでいる上小路からでは、つづらおりの嶮岨な山道を、およそ八里くらいもはなれた山奥……おまけにその白上という部落は、佐賀県とのさかい、多良岳のふもとで、そんなところから、こんな老婆の足で、けわしい山坂をこえてきたのでしょうか?
「さ、拝見しましょうかね」
 と回転椅子をまわして、老婆とまともに顔があったとたん、博士は、もういちど、目をみはらずにはいられませんでした。
なんというひどいやつれかたでしょう! やせてること、まるで骸骨のようです。
そしてはだけた胸から、肋骨がひとつひとつ透いてみえて、さながら昔話にある安達ヶ原の鬼婆があらわれでてきたようです。
「わたしがみてあげたいのは、赤ちゃんより、お婆さんのほうだね」
 と、笑いにまぎらして、それとなくいってみましたが、きこえたのかきこえないのか、老婆はそしらぬ顔をしています。
「どれ、赤ちゃんの胸をはだけてごらん……そう……そうやって、膝に抱いて……」
 聴診器をあててみましたが、瘠せおとろえた老婆とちがって、赤ン坊はまるまるとふとって、べつだん異常もみとめられず、どこから熱がでているのかわかりません。
「おかしいな? どれ! ここへ寝せてごらん」
 と、博士は壁際のベッドを指さしました。
「ああ、これだな……」
 ふとももにポツンと赤くはれあがって、根をはった腫物がひとつ……これが原因だとわかりました。
「熱はこれのためだね。
……お母さんのおっぱいを、あまり飲まなかったでしょう?」
 しかしあいては、うなずいただけで、べつだんなんとも返事をいたしません。
「たいしたこともないがね、膿をだして、すこしらくにしてあげましょう」
 赤ン坊の治療はかんたんにすみました。
が、それにしても気になるのは、あまりにも瘠せおとろえたこの老婆のほうです。
このやつれかたはただごとではありません。
「お婆さん、どこかぐあいでも、悪くはないのかね?」
 うんにゃ、おらがは、なんともねえでやす! といわんばかりに頭をふりました。
しかし、医者として、このからだがどうしてみすごしにできましょう。
「どれ、ちょっと、手をだしてごらん!」
 と、脈をにぎったとたん、不安そうにさっきから、下目づかいに博士の顔を見まもっていた老婆は、腹だたしげに、その手をふりはらってしまいました。
「おらがは、なんともねえだてえのに! おらがは病気じゃねえだったらようッ!」
 かみつかんばかりの、おそろしい顔なのです。
そしてその瞬間、なんともいえぬなまぐさいにおいが、プウンと鼻をうって、おそらく顔も口も洗ったことがないらしく、おもわず博士も、顔をそむけてしまいました。
「そうかね、わたしのからだじゃないんだから、お婆さんが、イヤならしかたがないが……」
 しかたなく博士は机にむかって、カルテに、いまの処置を書きいれはじめました。

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