初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第3話

亡霊怪猫屋敷

看護婦の平松は老婆のせなかに、泣いている赤ン坊をおぶせてやって、手当のすんだばかりの油紙や、膿盤やメスなどを、かたづけていたように思われました。
そして老婆は博士のうしろで、かえりじたくをしていたようにおぼえていましたが、ちょうどそのときだったのです。なんというふしぎなことでしょう。
机にむかってペンを走らせていた博士は、おばあさんに背を向けたまま、突然、引き込まれるような強い眠気にそそられました。
トロトロ、トロトロと、どうしようもない眠気です。
ハッ! と気がついて、「どうしたんだろう?」と、ふしぎそうに部屋を見まわすと、そこに立ってじっと自分を見つめている、おそろしいおばあさんの顔が目に入りました。
その、ものすごい底光りする目にギョッとしたのも束の間、またトロトロと、頭の芯がしびれるほどの眠気に襲われました。
いま目にうつったおばあさんの顔も、赤ん坊の顔もだんだん遠ざかっていき、ペンをにぎったまま、博士はガックリと机にうっぷしてしまいました。

「……あなた……あなた……あなたったら! まあ! どうなさったの? こんなところで居眠りなんかして! ……あら、平松さんまで……さあ、起きなさいよ、平松さん!」
 奥さんにゆり起こされて、はっと博士が目をさましたときには、もうおばあさんの姿はそこになく、看護婦の平松までが、博士と同じようにすぐそばのベッドにもたれて眠りこんでいました。

「へえ! 寝ていたのかい?……全然知らなかった! いったいどういうわけなんだろう」
 と博士はぼんやりして、あたりを見まわしました。
「まあ、奥さま……わたし、どうしたんでしょう?」
 平松もきまり悪そうに、キツネにつままれたような顔をしています。
「あなたは机に向かったままで寝ていらっしゃるし……平松さんはそのベッドにもたれて、ばんそうこうなんかを持ったまま寝ていらっしゃるし……どうなさったのかと思ったわ」
 と、奥さんは笑いをこらえながら、ふしぎそうな顔をしています。
「でも、いまのおばあさんはおそろしい人ね……私、身ぶるいしてしまいましたわ! そっと奥まで入りこんできて、部屋の中をのぞきこむんですもの……とっても気味の悪い人だわ」
「部屋の中をのぞきこんでた? ……そういえば、あのおばあさんはどうしたんだろう? ……」
「いまごろそんなことを言ったって、もういませんよ。わたしがいま、送りだしたばかりなんですから」
 と、奥さんはちょっと笑いを見せましたが、でも、あのおばあさんがよほど怖かったとみえて、その顔はすぐに気味悪そうに引きしまりました。
そして椅子に腰をかけながら、奥さんが話しはじめたのはこういうことでした。

赤ん坊が雨にぬれていると聞いて、かわいそうに思った奥さんは、ミルクでも作ってあげようと台所に立ちました。
できたミルクもほどよくさめたので、診察室にもってこようと長い廊下を歩いてきたとき、思いがけずそこに見たのは、電灯の光も届かない薄暗い廊下の角に、中腰になって赤ん坊をおぶったあのおばあさんが、ふすまのかげからじっと茶の間の様子をうかがっていたというのです。
そのときの奥さんは、特別おそろしいとも思わず、きっとお手洗いの帰りに部屋をまちがえたんだと思ったので、
「お部屋をまちがえたんじゃありません? 診察室はあちらですよ」
 と声をかけたというのです。
すると、だまって立ちあがり、ジロリと奥さんのほうをふりむいた顔は……その瞬間、奥さんは思わず総毛だって、「あっ!」と危うく声をあげそうになりました。
怖いこと、恐ろしいこと! 暗い廊下の中で、ギラッと目ばかりを光らせて、ニタリと笑った口は耳もとまで裂けて……まだこんなおそろしい顔は、いままで見たことがありませんでした。
「……あ! ……あの……診察室はこちらですのよ」
 と、それでも奥さんはふるえながらもおばあさんをつれていこうとすると、おばあさんはサッと自分で先頭に立って、もってきたほうへもどっていってしまったというのです。
そして、返事もしなければ奥さんにあいさつもせず、さっさと下駄をはいて、そのままうしろもふりむかずに、雨の中を帰っていってしまったというのです。

「本当に恐ろしくて、私ふるえてしまいましたわ」
「ふむ、山奥のおばあさんだからね、礼儀もなにも知らないんだろう。
……それにしても、ぼくたちふたりして眠りこんでしまうなんてふしぎだな。
なんだか怪談みたいだね。
ふしぎな夜だよ。
おまけに雨がショボショボ降って、まるで昔のおばけ話にそっくりじゃないか!」
 と博士は特に気にもとめず、おなかをゆすって笑い出しました。
五郎丸もほえるのをやめたらしく、外の雨の音だけがだいぶ激しくなってきたようです。
「この雨じゃ今夜はもう患者も来ないだろう。
どれ、一風呂浴びてくるかな」
 と、博士はうーんと大きく伸びをして立ちあがりましたから、この話はそれでそれっきりになってしまいました。けれど、今になって思い返してみれば――もしこの時、博士や奥さんが、あの老婆のふしぎな様子にもうすこし気を配って、そのおそろしい正体に、ほんの少しだけでも気づくことができていたなら、まさかあんな悲惨なめには遭わずにすんだのではないでしょうか。そう考えると、どうにも胸の残るような、悔しい気持ちが抑えきれなくなりす。

というのは、博士や奥さんたちは気づかなかったかもしれませんが、読者のみなさんは、もうこの老婆のあやしい行動の数々に、とっくにお気づきのことでしょう。
だからこそ、あとからこの話を聞いたとき、わたしは、「どうして誰もその場で、この老婆のあやしい様子に気づかなかったんだろう?」と、くやしさで地団駄(じだんだ)を踏みたいほど、残念でたまらなかったのです。

しかし、くわしい事情を聞いてみれば、そこには「なるほど、それならしかたがないか」と思える理由もちゃんとあります。みなさんにそのわけをしっかりと分かってもらうためにも、この博士夫妻が住んでいた家が、いったいどういういわくつきの家だったのかを、はじめにお話ししておかなければなりません。

博士が住んでいたこの家は、このあたりでも一際めだつほど立派で大きなお屋敷でした。それもそのはず、今から何代か前までは、今も町の端っこに残っているお城の城代家老(じょうだいかろう)、石藤左近将監(いしとうさこんのしょうげん)というえらい方が、たっぷりの金と権力を使って建てたお住まいだったのです。

城代家老といえば、お城の中でもお殿さまの次くらいにくらいが高いお方です。このお方が山茶花(さざんか)がとても大好きで、あちこちから山茶花のめずらしい名木を集めてはお屋敷のまわりに植えました。そのため、今でも「山茶花屋敷(さざんかやしき)」といえば、このあたりの近所では知らない者はいないほど、有名なお屋敷だったのです。

もちろん今では、そのご家老の子孫もみんな亡くなってしまい、一人も残っていません。それでも、さすがは一藩の城代家老のお住まいだけあって、苔むした築山(つきやま)、石の灯籠(とうろう)、泉のある広い庭、表や奥の書院から、家来たちの部屋や女中部屋にいたるまで、昔の立派だった面影をそのまま残していました。

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