初級翻訳・人形つかい 第1話

アンデルセン ハンス・クリスチャン

いかにも楽しそうな顔をした、かなりの年のおじさんが、汽船に乗っていました。
もし、ほんとうにその顔の表情どおりなら、この人はこの世界でいちばんしあわせな人にちがいありません。
じっさい、この人は自分でそう言っていたのです。
わたしはそれを、この人自身の口から、直接聞いたのでした。
この人はデンマーク人でした。
つまり、わたしと同じ国の人で、旅まわりの大きなお芝居の監督だったのです。
この人は、いつも一座の仲間たちをみんなといっしょに引きつれていました。
その仲間たちは、ぜんぶ大きな箱の中にはいっていたのです。
なぜなら、この人は人形つかいだったからでした。
この人の話によると、生れたときからずっと陽気な性格だったそうですが、それが、ある工科大学の学生によってすっかり清められ、そのおかげで本当のしあわせをつかむことができたということです。
わたしには、この人の言っている意味がすぐにはわかりませんでしたが、まもなく、この人はそのお話をぜんぶくわしく説明してくれました。
これが、そのときのお話です。

あれはスラゲルセの町でのことでしたよ、と、その人は話しはじめました。
わたしは、駅舎で小さなお芝居をひらいていたのです。
芝居小屋もすばらしいし、集まってくれたお客さんたちもすばらしい人たちでした。
もっとも、おばあさんが二、三人いたほかは、みんなまだ教会で大きくなったお祝い(堅信礼)もすんでいない、小さなお子さんたちばかりでしたがね。
するとそこへ、黒い服を着た、学生みたいな人がやってきて腰かけました。
その人は、おもしろいところになると、かならずニコニコと笑って、手をたたいて喜んでくれたのです。
こういうお客さんは、役者にとって本当にめずらしくてありがたいものなんですよ。
だからわたしは、この人がいったいどんな人なのか、とても知りたくなりました。
ほかの人に聞いてみると、地方の人たちにいろいろなことを教えるために派遣されてきている、工科大学の学生だということでした。

わたしの芝居は夜の八時におしまいになりました。
だって、子どもたちは早く寝なければいけませんでしょう。
私たち大人は、お客さまである子どもたちの都合をちゃんと考えてあげなければいけませんからね。
夜の九時になると、今度はその学生が、みんなの前で講義と実験をはじめました。
こんどは、わたしが聞き手にまわる番になったのです。
しかし、その学生の講義を聞いたり、ふしぎな実験を見たりしているうちに、わたしはなんだか、とても不思議な気持ちになってきましたよ。
たいていのむつかしいことはわたしの頭の上をすどおりしていきましたが、これだけは、いやでも深く考えさせられましたね――「もし、私たち人間がこんなすごいことを自分で思いついて形にできるのだとすれば、私たちは、地面の中に埋められてしまうまでに、もっともっと長生きできてもいいはずなのになあ」とね。
あの学生のやったことは、ほんの小さな奇跡のようないたずらにすぎませんでしたが、なにもかもがまるで魔法のようにすらすらとうまくいって、まるで自然の摂理そのものであるかのように見えました。
もし、大昔のモーゼや預言者たちの時代だったとしたら、あの工科大学の学生はきっと、国の賢者の一人にえらばれていたにちがいありません。
それがもし、もっと昔の暗い中世の時代だったとしたら、きっと魔女ならぬ魔法使いとして火あぶりにされていたことでしょうよ。

その晩、わたしは興奮して一晩じゅう、眠ることができませんでした。
そしてつぎの晩にも、わたしがまた芝居をやっていると、あの学生はふたたび見にきてくれたのです。
だからわたしは、うれしくてたまらなくなりました。
わたしはむかし、ある有名な役者からこんな話を聞いたことがあります。
その役者が恋人の役を演じるときには、お客さんたちの中にいるたった一人の女性の顔だけを心の中に思い浮かべ、その人のためだけに全身全霊で役を演じて、ほかの客席や小屋のことは、いっさいがっさい忘れてしまうというのです。
わたしにとっては、あの工科大学の学生が、まさにその「たった一人の特別な人」になったのです。
この学生のためだけに、わたしは一生懸命にお芝居をして見せることになったのでした。

芝居がおわると、人形たちはみんな箱から舞台に呼びだされました。
そして、わたしは工科大学の学生から、ブドウ酒をいっぱいごちそうになったのです。
学生はわたしの人形芝居について楽しく話してくれ、いっぽうのわたしは学生のすごい学問についてお話をしました。
あのとき、私たちはたがいに、心からすごく楽しく話し合ったように思います。
それにしても、あのとき学生が口にした言葉は、今でもずっとわたしの頭のなかにしっかりとこびりついて離れません。
というのも、その話の中には、学生自身でさえも完全には説明できないような、ふしぎなことがたくさんふくまれていたからです。
たとえば、ただの一片の鉄がコイルの中をスーッと通ると、それだけで磁石になってしまうといった現象も、そのうちの一つでした。
ほんとに、これはいったいどういうわけなのでしょう? 目に見えない不思議な霊気が、鉄に働きかけるのです。
しかし、その霊気はいったいどこからやってくるのでしょうか?
わたしの考えでは、この世の中で生きている人間についても、まったく同じことが言えるのではないかという気がしてしかたがないのです。
神さまは、人間を「時」という名のコイルの中を通過させます。
そうすると目に見えない霊気が人間に働きかけて、ナポレオンのような偉大な人や、宗教改革をしたルーテルのような人、あるいはまた、それによく似たすぐれた人物たちが、次々とできあがっていくのです。
「この全世界そのものが、奇跡の連続なんですよ」と、学生はそう言いました。「ところが、われわれは、それになれすぎているものだから、あたりまえのことのように思っているんです」
それから、学生はいろいろと話したり、説明したりしてくれました。
で、とうとう、わたしは、すっかり目を開かれたようになりました。
そこで、わたしは、もしこんなに年をとっていなければ、すぐにでも工科大学へはいって、この世の中のことを、いろいろと調べてみたいんだが、まあ、それができないにしても、わたしはもっともしあわせな人間のひとりだと、正直に白状しました。
「もっともしあわせな人間のひとりですって!」と、学生は、ひとことひとことを、味わうように言いました。
「あなたは、ほんとうにしあわせなんですか?」と、学生はたずねました。
「ええ」と、わたしは答えました。
「わたしはしあわせですよ。
わたしが、一座のものを連れていけば、どこの町でも、大かんげいをしてくれます。
といっても、もちろんわたしにも、一つの願いがありますがね。
それが、ときどき、ばけものか、夢にあらわれる悪魔のように、わたしにおそいかかってきて、わたしの上きげんを、めちゃめちゃにしてしまいます。
つまり、その願いというのは、生きた人間の一座の、ほんとうの人間社会の、劇場監督になることなんです」
「それでは、あなたは、人形が命を持つことを、望んでいらっしゃるんですね。

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