ぼくは、「くぐつまわし」という言葉や職業は、平安時代あたりですでに一度すたれてしまっていて、室町時代にはもう古い昔の「古典的な存在」になっていたんだと考えている。
その「ひひな廻し」たちが全国各地を旅して歩くということは、お雛さまを踊らせながら、人々の「お祓い(おはらい)」をして回っていた、ということなんだ。
人々の身にたまった「けがれ」をきれいに取り除きながら、日本中を旅していたんだよ。
それが時代とともに、だんだんと芸術的な芸能へと変化していったんだ。
その古い形が、ごくごく近代の時代まで残っていた。それが「淡島願人(あわしまがんにん)」と呼ばれる人たちだ。
子どもを亡くしたお家に行って、着物や頭巾、人形など、その子どもが生前持っていた大切な品物をもらったりして歩く、ちょっと変わった物乞いの人たちだったんだ。
この人たちこそが、古い意味での「お雛さま信仰」を胸に抱いて全国を巡り歩いた、最後の生き残りだったんだよ。
東京の浅草にも、「淡島堂」というお堂があるよね。
淡島堂はお雛さまをまつっていると言われているけれど、実はそんな歴史的な証拠はどこにもないんだ。
「ひな祭りの日に、淡島さまにお参りする」という江戸の人たちの信仰の中では、「ひな祭り」と「淡島祭り」とは完全にひとつになっていて、「これこそがひな祭りの起源なんだ」と言われていたりする。
この淡島という神さまは、日本神話を創ったイザナギとイザナミの神さま夫婦の間に生まれた「2番目の子ども」で、男の子なのか女の子なのか性別がわからない子だったんだ。
この「性別のわからない子どもを、小舟に乗せて流してしまった」という神話のエピソードから、人間のかわりとして厄を引き受ける「形代(かたしろ)」の起源になったんだろうと考えられているんだね。
だけど、そんなはるか昔の神話の時代までさかのぼらなくても、おそらくは、摂津国(大阪・兵庫の一部)の「住吉明神」や、紀州(和歌山県)の加太(かだ)にある「淡島神社」あたりから発生してきたものだと、ぼくは思っているんだ。
その住吉と加太が、「淡島願人」たちの活動の中心地だった。
彼らはそこから出発して、全国各地に「淡島信仰」を広めていき、女性特有の病気(下の病)に苦しんでいる女性たちを救いながら、日本中を歩いて回ったんだよ。住吉明神(すみよしみょうじん)の奥さんが白い帯下(おきた・婦人科系の病気)になってしまったのを嫌って、板戸(いたど)に乗せて川へ流してしまったところ、紀州(和歌山県)の加太(かだ)に流れ着いて、そこに祀(まつ)られるようになったというお話があるんだ。
だから、一年に一度、加太から住吉へお神輿(みこし)を戻すお祭り(式)が行われるんだよ。
ちょうどその真ん中あたりにあたる摂津の堺(さかい)という場所で、「さあ行こう」「いや、来させてなるものか」と、お互いに引っ張り合って争うような面白い儀式があるんだよ。
現代の信仰では、淡島(あわしま)さまは「けがれ」があって川や海へ流されてしまった神さまだとされているんだ。
だから、お人形は二体じゃなくて一体だけでもいいはずなんだけれど、それでもやっぱり「お人形は二体そろっているものだ」とみんな信じ込んでいるんだね。
それに、淡島願人(あわしまがんにん=全国を歩いてお参りを集めた人たち)が持ち歩いていた人形も、本当は一般的な「お雛さま」とはちょっと違うものだったんだ。
でも、淡島さまはどこへ行っても「少名毘古那神(すくなひこなのかみ)」だと言われているんだよ。
いずれにしても、淡島さまは「海の中にある島にいらっしゃる神さま」なんだ。
だからこそ、絶対に「海や川に流される神さま」にちがいないんだね。
そして、その願人たちは、人びとが川や海に流すための「おひなさま」を集めて回る人たちだったんだ。
それが時代とともに、亡くなった子どもたちの魂――行く場所がなくて、この世に残されてしまった大切な形見(かたみ)を集めて回るようになっていったんだね。
そして、おそらくそれは、女性特有の病気(下の病)の信仰とも深く結びついていったんだろう。
地方に行くと、淡島さまは「子どもの神さま」としては語られなくなるんだ。
そこでは女性ばかりが、子どもからお年寄りまでみんなでお参りをする。
そうすると、女性特有の病気にかからなくなるって、みんな強く信じているんだよ。
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