初級翻訳・人造人間 第3話

人造人間

 特に一ヶ月ほど前に、例の人造人間の実験を始めてからは、すべての訪問客をお断りし、実験室には助手の内藤女史以外、家族であっても出入りを固く禁じていました。
「もう七時になりましたよ。
学校に行ってきなさい」
 父子が遊んでいるところに、そう言いながら村木夫人が入ってきました。
 夫人は三十代を三つ四つ過ぎていましたが、まだ二十代に見える若さを保っていました。
「お父さん、行ってまいります」
「お母さん、行ってまいります」
ふたりの子どもは小鳥のように元気よく部屋を出ていきました。
「今朝もまた三人も新聞記者が来ましたよ」
夫人は夫のそばに腰を下ろしながら言いました。
「うるさいね、新聞記者なんかに何がわかるものか」
博士はそっぽを向いたまま、ふっと煙草の煙を吐き出して言いました。
「でもね、そのうちの一人がこんなことを言うんですよ。
先生の実験が成功したら、その子どもの戸籍はどうなるんでしょうね、って」
夫人は夫の顔を斜めから見つめながら言いました。
博士は石像のように黙っていました。
「本当ですね、それはどうなるんでしょうね。
私も知りたいわ」
博士の眉間に、縦に大きなシワがよりました。
しかしそれはすぐに消え、いつもの優しい顔に戻りました。
「学者は研究すればいいんだ。
研究の結果をどうするかなんてことは、実務家(実社会の人間)に任せておけばいい。
そのうち法律家が何とか決めるだろう。
ただ、実験に使った精子は私のものであるから、私は当然父親であるべきだと思うがね」
「そうしますと、母親がいないということになるのでございますか?」
夫人の顔に、さみしそうな表情が浮かびました。
博士はそれに気づいて、励ますような口調で言いました。
「母親はいないことになるね」しかし、これからさらに科学が進めば、父親のいない子どもだって生まれるようになるだろう。
 もし精子を人工的に合成することができたならね。
 だが、それもきっと近い将来に可能になるはずだ」
「そんなことになったら、親子の関係はとっても変なものになってしまいますわね。
道徳も義務もなくなってしまって。
でも、まずは当面の法律では、誰かが母親にならなければならないでしょう?」
「一番合理的に考えるなら、あの実験を手伝ってくれている内藤さんが、母親になる権利を持っていることになるんだが……」
 博士は、ちらっと稲妻のような早業で、夫人の顔を見た。
 夫人の顔は、それとまったく同じスピードでさっと曇った。
「少なくとも、法律家が僕に意見を求めに来たら、僕はそう主張するほかはない。
今の世の中の常識からすると、これはすごく奇妙に聞こえるかもしれないね。
お前だって変な気分がするだろうと思う。
しかし、この問題について新しい法律を作ることになると、今の世の中の常識ばかりにとらわれているわけにはいかないんだ。
こういうことが何度も何度も普通に行われるようになる、未来の社会をあらかじめ予想しておかなくてはならないからね」
 科学者の妻として、夫の仕事の性質をよく理解していた夫人は、博士の説明を聞いて「なるほどもっともだ」と思った。
 しかし、頭では納得しても、お腹の虫はなかなかおさまらない。
「でも、内藤さんには婚約している結婚相手がいるって言うじゃありませんか。
あの方だってとてもお困りになるでしょうし、それに、あの方の結婚相手の方だって……」
「そりゃ、仕方のないことだ。
真理の探究のためには、多少の犠牲が払われるのはどうしようもないことなんだよ。
電車や自動車が発明されたせいで、車を引っ張る車夫(しゃふ)たちが仕事場を失ったのと同じさ。
車夫たちには気の毒だけど、人類全体の進歩のいかんを思えば、やむを得ないことだ。
それに、そのあたりは内藤さんにも、彼女の結婚相手の人にも、よくよく納得してもらわなくちゃいけないね」
 博士は腕時計を見た。
 八時の五分前だった。
 博士は身支度を整えると、実験室へと出かけていった。
 しばらくすると、お屋敷の中からピアノの音が聞こえてきた。
 ショパンの曲だった。

3

 それから二十日ほどが過ぎたある日のことである。
 村木博士のお屋敷の庭では、桜の花はもうとっくに散って葉桜になり、あちこちの庭石の陰には、赤や白のさまざまな珍しいツツジの花が咲いていた。
 雑司ヶ谷(ぞうしがや)の丘の木々は、たっぷりと豊かな日光を浴びて、一本一本の青葉がみるみる生い茂っていくのが、自分の目ではっきりと感じられるほどだった。
 こんな天気のよい日は、誰だって自然が持つ一種の圧倒的な力に打たれて、切ないような気持ちになってしまうものだ。
 ましてや、甘い悩みにとらわれた青春真っ只中の男女にとって、五月という季節は、何とも言葉にできない、じっとしていられないような、焦るような気持ちをかきたてるのだった。
 婚約者がいながら、妻も子どももある男性に、胸のなかの思いのたけをすべてぶつけるようになってしまった内藤房子は、村木博士の実験室の中で、机に向かって化学の本を読んでいた。
 だが、その目はひとりでに窓の外の青葉へと引き寄せられてしまう。
 心は、いつの間にか、味気のない教科書のページの上を滑り出て、まったく別の場所へとさまよい飛んでいくのであった。
 村木博士は「ちょっと用事がある」と言って、二日前から鎌倉へ出かけたきり、まだ帰ってきていなかった。
 その留守の間、房子は実験室にこもりっきりになり、化学式の暗記に必死で取り組んでいたのである。
 彼女はここ最近、自分の置かれている立場に対して、言いようのない強い不安を感じ始めていた。
 彼女は婚約者の男性を愛していなかったわけではない。
 彼女の未来の夫は、彼女のことを心から信じきっていた。
 あんなにも有名な博士のところに、行儀見習いも兼ねて研究のお手伝いに行っていることを、彼はむしろ誇りに思っているくらいだったのだ。
「もしあの人が、私と博士が愛人関係にあることを知ったら、どうなってしまうんだろう?」
 彼女は、自分の足元がぐらぐらと揺らいで崩れていくような恐ろしさを感じた。
 だが何よりも彼女にとって耐えがたい恐怖は、三ヶ月ほど前から自分の身体に起こりはじめた、おかしな異変のことだった。
 博士は「妊娠ではない」と診断してくれたけれど、二、三ヶ月前に彼女を襲った体の不調は、どう考えても「つわり」に違いなくだった。
 その上、今に至るまで生理も予定通りにこないままだった。
「きっと、間違いなく妊娠しているんだわ。
博士は私に心配をかけまいとして、嘘をついていらっしゃるんだ。
それに、博士ご自身だって、この恐ろしい現実を信じたくなくて、無理やり否定しようとなさっているんだわ……」
 彼女は、あのときの博士の冷静な顔を思い出すと、激しい怒りと憎しみを覚えるのだった。
 それと同時に、自分が博士の子どもを身ごもっていることを意識してしまうと、博士のことが恋しくて恋しくて、どうしようもなくなるのだった。
「もし本当にそうだとしたら、私の人生はおしまいだし、博士ご自身だって破滅してしまう。

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