それに……」
彼女は、ここ最近の村木夫人の目に、一種のドロドロとした嫉妬の光が執拗に宿っていることに気づいていた。
夫人は相変わらず房子に対して愛想よく振る舞っていて、嫉妬しているような素振りは第三者から見たら少しもなかったのだが、当事者である房子にとっては、夫人の態度が優しければ優しいほど、まるで強烈なレーザー光線でジリジリと撃たれているような気がしてならなかった。
自分の心の底まですっかり見透かされているような気がして、目の前に恐ろしいワシが控えている小鳥のように縮み上がり、夫人の顔をまともに見ることすらできなくなっていた。
すべての事情が、彼女にとっては不愉快で、そして恐ろしかった。しかし、もう今となってはどうすることもできないように思えました。
博士に相談しても、彼はただ簡単に事実を打ち消すばかりで、まったく話を聞いてくれません。
「博士は本当に私を愛してくださっているのだろうか? もし夫人と私のどちらかを選ばなければならなくなったとき、博士はどうなさるだろう?」
彼女はこの疑問に対して、まったく自信を持てずにいました。
もちろん、子どももいて長年連れ添ってきた、それに見た目の美しさでも自分以上である、少なくともしっかりとした気品のある夫人に対して、自分は到底かなわないように思えたのです。
彼女の顔つきは、急に険しいものになっていきました。
女というものは生理的に、突然気持ちが一転して、気弱などん底からこの上なく強気な気持ちへと、まるで宙返りするように変わることがあります。
いまの彼女がまさにその状態でした。
「そうだ、あくまでも勝負しよう。
完全に、すっかり博士を自分だけのものにしてしまわなければならない。
名誉も、家も、夫人も、子どもも、そして命の次に大切な研究も、すべてを捨てて私のところへ飛び込込ませなくてはならない……」
「先生はいつかこんなことをおっしゃっていた……『今度の実験は私の命と名誉をかけた実験だから、万が一しくじったら私は何もかもおしまいなんだ』と……」
彼女は血走った目で、隣の部屋へと通じるドアをちらりと見つめました。
血を見た猛獣のように、彼女はガバッと立ち上がりました。
デスクの引き出しを開け、彼女は狂ったように何かを探し出しました。
彼女の手には、鍵の束がしっかりと握りしめられていました。
あまりの激しい興奮に理性を失っていた彼女は、博士の大事な実験をめちゃめちゃにして博士を世間に顔向けできないようにし、どこか地球の果てというような場所へ行って、自分とふたりきりで思いっきり恋愛を楽しむ生活を送ろうと考えたのです。
――世界をも恋ゆえに――クレオパトラのその言葉が、彼女には絶対的なお告げのように思い出されました。
しかし意外にも、一番はじめに試した鍵が、すんなりと鍵穴に入りました。
ドアは拍子抜けするほど、いとも簡単に開きました。
実際には、ドアを叩き壊してでも入るくらいの勢いだった彼女にとって、それは予想外のことで、驚きでした。
だが、それ以上に驚きだったのは、部屋の中には見慣れた机がひとつと椅子がひとつ、デスクの上には何やらドイツ語の本が開いてあって、その前には大判の洋風の罫紙に何かドイツ語で書きかけのものが置いてあるだけで、それ以外には何ひとつ見当たらなかったことです。
あまりの拍子抜けに、彼女の興奮は一気に冷め、がっかりしてしまいました。
どんなにすごい秘密の仕掛けがしてあることかと期待していた矢先に、見つかったのは、ありふれた机と椅子と本が一冊きりだったのです。
彼女は、まるで幽霊のようにふらふらとしながら、天井を見上げたり、床や壁を押したり、踏んだり叩いたりしてみました。
けれども、結局は何も見つけることができませんでした。
彼女は綿のようにへとへとになって疲れ果ててしまいました。
そして、もとの部屋へ戻ると、机にもたれかかったまま前後不覚になって眠り込んでしまいました。
彼女が、首もとに柔らかく温かいものが触れるのを感じて目を覚ましたとき、目の前には、後ろに立って自分にキスをしている村木博士の姿がありました。
「まあ、いつの間に……」彼女は慌てて姿勢を正し、ほつれた髪をかき上げました。
「たった今帰ったところですよ。
実は今度、実験室を鎌倉の方へ移すことにしましてね。
隣の部屋の片付けは、出発の前日の夜に、みんなが寝静まってからやったんです。
あなたにも、家族にも秘密でね。
新聞記者などに嗅ぎつけられたらうるさいと思ったものですからね。
なに、荷物はトランク一つにまとまりましたよ。
今のうちでないと、大きくなっちゃうと持ち運びが大変ですからね。
液が揺れて混ざるのを防ぐためにはずいぶん苦労しましたが、それでも長い道中なのでどうなるかと思いましたが、幸い無事に向こうの実験室へ移しましたよ。
だから、あなたも明日からあちらの実験室でお手伝いしてもらうことにしました。
私は週に一度、発育状態を調べに行けばよいのです。
あちらには、おばあさんを一人つけておきます。
あなたの仕事はその都度お願いすることにしますが、あちらの実験室へは絶対に入れませんから、そのつもりでね。
さあ、それでは家の方へちょっと……」と、博士はひとりでしゃべりながら、相手が何も言う暇もないうちに、彼女のふたつの目に代わるがわるキスをして、軽やかな足取りで実験室を出て行きました。
5
それからおよそ六ヶ月の間、村木博士は正確に週に一度ずつ、鎌倉の実験室へ通いました。
彼が実験室の中でどんな研究をしているのかは、外見からはまったくわかりませんでした。
けれども、実験は順調に進んでいることだけは確かでした。
房子はとうとう妊娠していることがわかったので、博士は実験のことは一切手伝わせず、話もしないことに決め、専ら静養させることにしました。
しかし博士は、家庭においても善良な父親であり夫であることに、変わりはありませんでした。
房子を抱きしめたその同じ手で、子どもたちを可愛がりました。
房子に愛の言葉をささやいたその同じ口で、夫人と楽しく談笑しました。
そしてまた、世間に対しては、学界に対しては、博士は模範的な紳士そのものでした。私たちは、村木博士のなかに完全な二重生活を見て取ることができました。
十月の終わりのある晩、村木博士の別邸の近くに立ち、もし優れた聴覚を持った人がじっと耳をすませたなら、博士の家の中からかすかに赤ちゃんの産声を聞き分けることができたでしょう。
もちろん、それは房子が出産したからにほかりません。
けれども、この出来事は誰にも知られずにすんだのです。
それから数日たった、雑司ヶ谷にある村木博士の本邸でのことでした。
「あなた、生理学会の秋季大会は明後日ですってね?」
夫人は心配そうな顔をして博士に向かって言いました。
「そうだ、明後日だったね」
博士は理学者らしい冷静さをもって答えました。
「それまでに実験は間に合うのでしょうか? 今日はいつかの新聞記者がやってきてね、そのことを念を押していったのですよ」
「大丈夫、間に合わせるつもりだ」
「今度は大学側で、大勢の教授たちがあなたに詰め寄るような質問をすると言って意気込んでいるそうですわ。
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