一
今から二十年も前のことです。まだ若くて、すぐに感傷的になってしまうような年頃だった頃、私が通っていた学校は、靖国神社の近くにありました。
ですから、招魂祭(しょうこんさい)の時期になると、授業の合間を見つけては、よくそこへ足を運んだものです。
今でもあるように、あの頃から馬場の北側には、猿回しの見世物小屋が出ていました。
ある時、ふらりと入ってみると、「葛の葉の子別れ」という演目をやっていました。
猿回しが、大した節回しでもない声で、物語の悲しい場面を語るのに合わせて、葛の葉狐に扮した猿が、右を見たり左を見たりと、なんとも切なそうな身ぶりをするのです。
「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり」
確か、そんな文句だったと思います。
猿回し特有の、あのどこか陰気な声が、若くて繊細だった私の心に深く響いたことを、今でもはっきりと覚えています。
平野の中に横たわっている丘陵、信太山(しのだやま)。
その風景を見慣れている私たちにとっては、山また山の地方に語り継がれる物語には、こうした「山に囲まれた切なさ」というリアリティが生まれるものだと、その時初めて気づかされました。
私個人の経験から言っても、それ以来、「信太妻(しのだづま)伝説」の背景が、現実の風景と物語の情景という、二重の重なりとなって感じられるようになったのは事実です。
今、世の中の人々が持っている「信太妻」についての知識は、そのほとんどが竹田出雲(たけだいずも)の『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』という浄瑠璃の中盤部分からきています。
物語はこうです。恋人を亡くして心を病んでしまった安倍安名(あべのやすな)が、正気を取り戻すのが信太の森。そこで、狩り出された一匹の古狐が逃げてきて、安名がそれを助けてやります。すると、亡き恋人の妹である葛の葉姫が現れ、二人は幸せな時間を過ごすのですが、そこへ石川悪右衛門(あくえもん)という者が現れて、姫をさらってしまう。安名は絶望のあまり腹を切ろうとしますが、先ほど助けた狐が葛の葉姫に化けて現れ、それを止めます。安名は都にも帰れない身の上となって、摂津国(せっつのくに)の安倍野という村へ移り住み、夫婦として暮らすようになります。
やがて子供が生まれて、五つくらいになるまでは何事もありませんでした。子供の名は「童子丸(どうじまる)」といいます。
ある時、葛の葉姫の父親である「信太荘司(しのだのしょうじ)」が、安名の居場所を突き止め、本物の葛の葉姫を連れておしかけ嫁にしてしまいます。家に着いてみると、安名は留守で、自分の娘にそっくりな女が布を織っていました。安名が帰ってきてその女と話してみても、わけのわからないことばかり。今の女房が、どうにも怪しいのです。
そんな正体を見破られた狐の葛の葉は、障子に歌を書き残して、どこかへ逃げていってしまいます。その名高い歌は、わかったような、わからないような……。
「恋しくば、たづね来て見よ。和泉(いずみ)なる信太の森の うらみ葛の葉」
なんだか助詞の使い方もおかしくて、いかにも世間で言われる「狐が書いた文字」らしく、とても狐らしい歌です。
その後、子供の童子丸があまりにお母さんを慕うので、安名が信太の森へ連れて行くと、葛の葉が現れて、その子にだけ本当の姿を見せるという結末です。
この「狐の子別れ」の場面は、近松門左衛門の『百合若大臣野守鏡(ゆりわかだいじんのもりかがみ)』をまねたものだと言われていますが、むしろ近松のほうが、それ以前からあった「信太妻」の説経節(せっきょうぶし)などの影響を受けていたのだと私は思います。近松の影響と言えば『三十三間堂棟木由来(さんじゅうさんげんどうむねぎのゆらい)』などがそうでしょう。
出雲のほかにも、少し前に紀海音(きのかいおん)が同じ題材を扱って『信太森女占(しのだもりめうら)』という浄瑠璃を作っていますが、こちらはそれほど大きな影響は与えなかったようです。
信太妻伝説は『大内鑑』が出たことで、物語の形がぴたりと固定されました。それ以降に語られる話は、この伝説を戯曲化した『大内鑑』をベースにしています。それ以外に、違った形で伝わっていた古い伝説は、すべてこの一つの物語の中に吸収されていくことになりました。
言うまでもなく、伝説というものは流動的で、じっとしていることはありません。時を経て、だんだんと枝葉を広げていくものです。しかも、どこか似たような話があれば、その共通点からどんどん取り込んでいきます。そうして伝説は自由自在に形を変え、自分たちの興味に関係のない部分はいつの間にかこぼれ落ちて、多種多様に変化していくのです。
そうして流れていった伝説が、ある時、特定の脚色を取り入れて戯曲や小説としてまとめられると、それがその伝説の「定本(決定版)」だと見なされるようになります。そうなると、世間の人が持つ伝説の知識も、その範囲に限定されてしまいます。その作品が世に出回れば出回るほど、その影響力が伝説の形を決定づけてしまうのです。
長い日本の小説史を振り返ってみても、伝説を固定させた創作物が、やがて時代を経て崩され、再び伝説として吸収されていった事実は、いくらでもあります。
『大内鑑』よりも前の創作物にあたってみると、角太夫節(かどだゆうぶし)の正本(台本)に、その物語があります。タイトルは同じ『信太妻』です。しかし、これにもさらに前型があるようで、本当の元祖がどこにあるのかはわかりませんが、やはり同じ『信太妻』というタイトルの説経節の正本が存在していたようです。
「信太妻」という名は、信太にいる妻、あるいは信太から来た妻、どちらとも解釈できますね。
角太夫節の方の筋書きを話すと、『大内鑑』のように信太の荘司などは出てきません。破局に至る原因がもっと自然で、伝説そのもののような形をしています。
ある日、葛の葉が縁側に立って庭を眺めていると、ちょうど秋の盛りで、菊の花が咲いていました。それは、狐が非常に好む「乱菊(らんぎく)」という花でした。
花を見ているうちに、自然と狐の本性が現れてしまい、顔が狐の姿になってしまったのです。そばに寝ていた童子が目を覚まして、お母さんが狐になったと怖がって騒ぐので、葛の葉は障子に「恋しくば」の歌を書いて、去ってしまう。
子供が慕うので、安名があとを追って行くと、葛の葉が姿を見せたという。
このあたりは大体同じことであるが、その前後は、ずいぶん変わっている。
海音・出雲が角太夫節を作り変えた、といったように聞こえたかもしれないが、実は説経節の影響が直接になければならないはずだ。
内容は数次の変化を経ているけれど、説経節ではその時々の主な語り物を「五説経」と唱えて、五つを勘定している。
いつも信太妻が入っているところから見ると、この浄瑠璃は説経としても、重要なものであったに違いない。
それでは、説経節以前が、伝説の世界に入るものと見てよろしいだろうか。
一体名高い説経節は、恐らく新古の二種の正本があったものと考える。
古曲がもてはやされたところから、多少複雑な脚色を添えて世に出たのが、刊本になった説経正本であろう。
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