初級翻訳・僕の帽子のお話 第2話

僕の帽子のお話

帽子が――その時はもう学校の正門のところまで来ていましたが――急に立ち止まって、こっちを振り向いて、
「やあい、追いつかれるものなら、追いついてみろよ」
と言いました。
確かに帽子がそう言ったのです。
それを聞くと、僕は「負けるもんか!」と闘志がわいて、いきなりその帽子に飛びつこうとしました。すると、帽子も僕も一緒になって、学校の正門の鉄の扉を何の苦もなくすり抜けてしまいました。
ハッと思うと、僕は梅組の教室の中にいました。
僕の組は松組なのに、どうして梅組に入り込んだのか分かりません。
飯本先生が一銭銅貨を一枚、みんなに見せていらっしゃいました。
「これを何枚飲むと、お腹の痛みが治りますか」
と先生がお聞きになりました。
「一枚飲むと治ります」
とすぐに答えたのは、あばれん坊の栗原です。
先生が首を振られました。
「二枚です」と今度はおとなしい伊藤が、手を挙げながら言いました。
「よろしい、その通り」
僕は「伊藤はやっぱりよくできるんだな」と感心しました。
おや、僕の帽子はどうしただろうと、今まで先生の手にある銅貨にばかり気を取られていた僕は、ふと気がついて大急ぎでそこらを見回しました。
どこで見失ったのか、そこら中に帽子はいませんでした。
僕は慌てて教室を飛び出しました。
すると、広い野原に来ていました。
どっちを見ても短い草ばかりが生えている広い野原です。
真っ暗に曇った空に、僕の帽子が黒い月のように高くぶら下がっています。
とても手も何も届きはしません。
飛行機に乗って追いかけても、そこまでは行けそうにありませんでした。
僕は声も出なくなって、恨めしくそれを見つめながら、地団駄(じだんだ)を踏むばかりでした。
けれども、いくら地団駄を踏んで睨みつけても、帽子の方は平気な顔をして、そっぽを向いているだけです。
こっちから何か話しかけても返事すらしてやらないぞ、というような意地悪な顔をしています。
お父さんに「帽子が逃げ出して空に登り、真っ黒なお月様になったんだ」なんて言ったところで、とても信じてもらえそうもありません。それに、明日からは帽子なしで学校に通わなければならないのです。
こんな馬鹿げたことがあるものでしょうか。
あれほど大事に、可愛がってやっていたのに、帽子はどうして僕をこんなに困らせなければ気が済まないのでしょう。
僕はますます悔しくなりました。
そうしたら、また涙という厄介者が両方の目からポタポタと流れ出してきました。
野原はだんだん暗くなっていきます。
どちらを見ても人っ子一人いませんし、人の家らしい明かりも見えません。
どういうふうにして家に帰れるのか、それさえ分からなくなってしまいました。
今までそんなことは考えてもみなかったのに。
ひょっとしたら、狸(たぬき)が帽子に化けて僕をいじめているのではないかしら。
狸が化けるなんて大嘘だと思っていたのですが、その時ばかりはどうもそうらしい気がしてしかたなくなりました。あの帽子を売っていた東京の店は、実は狸の巣で、お父さんはそこで化かされていたんだ。狸が僕を山の中に連れ込むために、まずは一番にお父さんを騙したんだね。
そういえば、あの帽子は僕の好みにぴったりすぎて、少し出来すぎているくらいだった。
僕はだんだん気味が悪くなって、こっそりと空の帽子を見上げてみました。すると、真っ黒なお月様のように見えていた帽子が、なんだか小さく丸まった狸の姿のようにも見えてきました。かと思えば、やっぱり僕の大切な帽子にも見えるのです。

その時、遠くの方から僕の名前を呼ぶ声が聞こえはじめました。泣きそうな声もします。
「いよいよ狸の親分が来たのかな」と思うと、僕は恐ろしさに背筋がぎゅっと縮み上がりました。

ふと僕の目の前に、お父さんとお母さんが寝衣のままで、泣きはらした目で大騒ぎしながら、僕の名前を呼んで探し回っている姿が見えました。それを見ると、僕は悲しさと嬉しさがこみ上げてきて、いきなり飛びつこうとしました。でも、「もしかしたら、このお父さんたちも狸が化けているんじゃないか」とふと気がついて、なんだか薄気味悪くなり、飛びつくのをやめました。

そして、じっと二人を見ていました。
お父さんもお母さんも、僕がすぐそばにいるのに少しも気づかないようで、お母さんは僕の名前を呼び続けながら、タンスの引き出しを一生懸命に探しています。お父さんは涙で曇った眼鏡を拭きながら、本棚の本を片端から取り出して調べています。
そうです、そこには家にあるのと同じ本棚とタンスがそのまま現れていたのです。
僕は「そんなところを探したって、僕がいるわけないのに」と思いながら、二人がなかなか僕を見つけられないのをいいことに、黙って見ていました。

「どうも、あれがこの本の中にいないはずはないのだがな」
と、やがてお父さんがお母さんに言いました。
「いいえ、そんなところにはいません。またこのタンスの引き出しに隠れたまま、いつの間にか寝込んでしまったに違いありません。月の光が暗いので、ちっとも見つかりはしないわ」
とお母さんは、いらいらするように泣きながらお父さんに返事をしています。

やはりそれは、本当のお父さんとお母さんでした。間違いありません。あんなに僕のことを思ってくれるお父さんやお母さんが、外にいるはずはないのですから。
僕は急に勇気がわいてきて、顔中がにこにこ笑い出しそうになりました。
「わっ!」と言って二人を驚かせてあげようと思い、いきなり大きな声を出して二人の方へ走り寄りました。

ところが、どうしたことでしょう。
僕の体は、学校の鉄の扉を何の苦もなくすり抜けたときのように、お父さんとお母さんを空気のように通り抜けてしまったのです。僕は驚いて振り返ってみました。お父さんとお母さんは、そんなことがあったとは少しも知らず、相変わらず本棚とタンスをいじくり回しています。

僕はもう一度二人の方に進み寄って、二人に手をかけてみました。そうしたら、二人だけではなく、本棚もタンスも、空気と同じように触ることができません。それを知ってか知らずか、二人は前と同じように一生懸命、泣きながらしきりに僕の名前を呼んで探しています。

僕も声を上げました。だんだん大きく声を上げました。
「お父さん、お母さん、僕ここにいるんですよ。お父さん、お母さん!」
けれども駄目でした。お父さんもお母さんも、僕がそこにいることには少しも気づかず、夢中になって僕のいないところばかりを探しているんです。
僕は情けなくなって、本当においおいと泣き出してしまいそうでした。

その時、僕の心にすごい知恵がひらめきました。
「あの狸帽子が空の上でいたずらをしているから、お父さんやお母さんは僕の居場所がわからないんだ。そうだ、あの帽子に化けている狸親父を退治するしかない!」
そう思いました。僕は空中にぶら下がっている帽子を目がけて飛びついて、それをいじめて白状させてやろうと考えました。

僕は高跳びの身構えをしました。
「レディー・オン・ゼ・マーク……ゲッセット……ゴー!」
力いっぱい跳ね上がったと思うと、僕の体はどこまでも、どこまでも上の方へと登っていきます。面白いように登っていきます。

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