初級翻訳・火事とポチ 第2話

有島 武郎

立ち止まって自分の体を見てみると、ブルブルと震えが止まらない。ひざとお辞儀をするみたいにガタガタ震えて、あごまでガチガチと音を立てそうなくらいだった。
急に、お家が恋しくなったんだ。

おばあちゃんも、お父さんも、お母さんも、それに妹や弟たちはどうしているんだろう? そう思ったら、もうこれ以上遠くへ行く気なんてなくなって、ぼくは来た道を夢中で走りだした。
走りながらも、ぼくは赤々と燃え上がる火から目をそらすことができなかった。
真っ暗な闇の中で、ぼくの家だけが大きな焚き火みたいに明るく輝いていた。
遠くにいるのに、顔まで熱くなってくるようだった。

誰かが大きな声でわめき合っているのが聞こえた。
それに、ポチが狂ったように吠え続けている声も。
町の方からは火事を知らせるカネの音も聞こえないし、消防車もまだ来ない。
「ああ、お家が全部焼けちゃう……」ぼくはそう思った。
明日からは何を食べて、どこで寝ればいいんだろう。そんなことを考えながら、一刻も早くみんなの顔が見たくて、一生懸命に走った。

家のすぐ近くまで来たとき、一人の体の大きな男の人が、こちらに向かって走ってくるのに出会った。
よく見るとその男の人は、ぼくの妹と弟を、両脇にしっかりとかかえていたんだ。
妹も弟も、大きな声を出して泣きわめいていた。

ぼくはハッとした。「この男、人さらいだ!」って、とっさに思ったんだ。
ぼくたちが住んでいる町の裏は山になっていて、大きな森の中にある古いお寺に、一人のホームレスのような人が住んでいた。
ぼくたちが山へ遊びに行って、遠くにその人を見つけると、「人さらいが来たぞー!」って叫びながら、みんなで大急ぎで逃げ出すのがいつものことだったんだ。
その人は、どんなことがあっても走ったりはせず、ぼろぼろの服を引きずりながら、のそのそと歩くだけだった。だから、つかまる心配なんて本当はなかったけれど、遠くから逃げるぼくたちを見て、牛のような低い声でおどかしてくることもあった。
ぼくたちは、その人のことが何よりも怖かったんだ。

ぼくは、目の前のこの男が、あの人さらいで、妹と弟を連れ去ろうとしているんだと思い込んでしまった。
運がいいことに、その男の人はぼくがいることに気づかないほどあわてていたみたいで、ぼくのそばをそのまま通り過ぎていった。
ぼくは一度男の人をやり過ごして、どうしようかと考えた。でも、「妹や弟がどこへ連れて行かれるか分からなくなったら大変だ!」と気づくと、家に帰るのをやめて、急いでその男の人の後を追いかけることにした。

その人は、ものすごく足が速かった。
ぼくがはいている大きな草履(ぞうり)が邪魔になって、脱ぎ捨ててしまいたくなるくらいだったよ。
その人は、大声で泣きつづけている妹たちを脇にかかえたまま、どんどん石垣のある横道へと曲がっていく。ぼくはだんだん怖くなってきたけれど、「火事どころの騒ぎじゃないぞ」と思って、手ぬぐいを頭にかぶって着物のすそをまくり上げたその人の後ろを、見つからないように必死についていった。

すると、その人はやがて「橋本さん」というお家の高い石階段を登り始めた。
見上げると、階段の上には橋本さんの家族がみんな出ていて、ぼくの家の方を見つめながら火事をながめていた。
そんなところに人さらいみたいな人が登っていくなんて、ぼくはなんだかおかしいなと思った。
すると、橋本のおばさんが、階段の上からその男の人に声をかけたんだ。

「あら、あなた、帰っていらしたのね。……火事、ひどくなりそうですね」
すると、その人さらいだと思っていた男の人が、妹と弟をひょいとかつぎ上げながらこう言ったんだ。
「子供たちが危ないから連れてきたよ。でも、竹男(たけお)さんだけはどこに行ったのか、どうしても見当たらなかったんだ」

なんだ。
人さらいなんかじゃなかったんだ。
橋本のおじさんだったんだよ!

ぼくはすっかりうれしくなって、すぐに石階段を駆け上がっていった。
「あら、竹男さんじゃないの!」
すぐにぼくを見つけてくれたおばさんが声をあげた。
橋本さんの一家は、みんなでぼくたちを家の中に入れてくれた。
家の中には明かりがこうこうとついていて、ずっと真っ暗な道を歩いていたぼくは、それだけでなんだかホッとして、すごくうれしかった。

「寒かったでしょう」と、みんなが心配してくれた。
温かい葛湯(くずゆ)を作ってくれたり、厚手の着物を着せてくれたりした。
そしたらぼくは、なんだか急に、悲しい気持ちがこみ上げてきたんだ。家の中に入って泣きやんでいた妹たちも、ぼくがシクシク泣きだすと、つられてまた大きな声で泣きだしちゃった。
ぼくたちは橋本さんの家の窓から、ブルブル震えながら、自分のお家が燃えていくのをずっと見て夜を明かしたんだ。

ぼくたちを送り届けてからすぐまた手伝いに行ってくれた橋本のおじさんが、びしょぬれでドロだらけになって、まるで別人みたいに顔を真っ黒にして帰ってきたころには、もうすっかり夜が明けていたよ。ぼくのお家があった場所からは、黒い煙と白い煙が別々に、からまり合いながらモクモクと空へ上がっていたんだ。

「安心しなさい。メインのお家は焼けちゃったけれど、離れ(はなれ)の建物だけは残ったよ。お父さんもお母さんも、みんなケガはないからね。……もうすぐお家に連れて帰ってあげるから。それにしても、今朝の寒さはすごいな。見てごらん、あたり一面真っ白な霜(しも)が降りているよ」
とおじさんは言いながら、井戸のそばに立って周りを見渡していた。
本当に、井戸の周りまで真っ白になっていたんだ。

橋本さんの家で朝ごはんをごちそうになって、お日様が茂木(もぎ)さんの別荘にある大きなマキの木の上にのぼったころ、ぼくたちはおじさんに連れられてお家へ帰ることにした。
お家に着くと、いつの間にどこからこんなに集まったんだろうって驚くくらい、たくさんの人たちが、まるでケンカでもしているみたいな勢いで一生懸命に働いていたよ。
あたり一面、大雨が降ったあとのようにビショビショで、ぼくの草履(ぞうり)はすぐに水を吸って重くなっちゃった。足の裏がぬれて、なんだか気持ち悪かったな。

残った離れに行ってみると、「これがおばあちゃんなの? お父さんやお母さんなの?」ってびっくりするくらい、みんなの様子が変わっていたんだ。
お母さんなんて、今まで一度も見見たことがないような変な着物を着ていて、髪の毛はボサボサ。顔も手も、煙ですすけて真っ黒になっていたよ。
ぼくたちの姿を見つけると、お母さんは急に駆け寄ってきて、ぼくたち三人を胸いっぱいに抱きしめたんだ。そして、ぼくたちの顔に自分の顔をこすりつけて、むせび泣きはじめた。
ぼくたちは、そのあまりの激しさに、少し怖いくらいに感じたよ。

変わったといえば、お家が焼けたあとの景色もひどいものだった。
真っ黒にこげた材木が、まるで積み木をひっくり返したみたいに重なり合っていて、そこからクサイにおいのする煙がただよってきたんだ。
お家がなくなったせいで周りがガランと広くなっていて、それを見ていると、お母さんじゃないけれどぼくまで涙が出てきそうになった。

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