初級翻訳・火事とポチ 第1話

有島 武郎

愛犬のポチが激しく吠える声で、ぼくはパッと目を覚ました。

ものすごく眠たかったから、「もう、うるさいなあ」と怒る暇もなかった。だって、真っ赤な火が目に飛び込んできたんだ。びっくりして両目をこすってパッチリ開けてみたら、なんと戸棚の中が火の海になっている! ぼくは二重に驚いて、布団から勢いよく飛び起きた。

すると、ぼくのすぐ隣で寝ているはずのおばあちゃんが、何か黒い布のようなものを両手に持って、夢中になって戸棚の火をバタバタとたたいていたんだ。

どうしていいか分からなかったけれど、おばあちゃんのその姿がなんだかおかしくもあり、同時にものすごく恐ろしくも思えて、ぼくは思わずおばあちゃんの方へ駆け寄った。

だけど、おばあちゃんは何も言わずに、邪魔そうにぼくをぐいっと押し出すと、その布のようなものをめちゃくちゃに振り回し続けた。

その布がぼくの手に一瞬触れたとき、水でぐしょぐしょに濡れているのが分かった。

「おばあちゃん、どうしたの!?」
ぼくは声をかけてみた。

でも、おばあちゃんは戸棚の中で燃え盛る火ばかりを見つめていて、返事もしようとしないんだ。

ぼくは「これって、もしかして火事なんじゃないか!?」と思った。

ポチが戸の外で、まるで狂ったように激しく吠え続けている。

部屋の中は、障子も、壁も、床の間も、飾り棚も、まるで昼間のようにパッと明るくなっていた。

壁にはおばあちゃんの影が大きく映し出されて、まるで怪物か何かが暴れているようにゆらゆらと動いていた。

ただ、おばあちゃんがぼくに一言も口をきかないのが、どうしても不気味だった。

急に声が出なくなってしまったのだろうか。

それに、いつもみたいに優しく可愛がってくれるどころか、ぼくが近づいてもまるで邪魔者みたいに追い払うんだ。

「これは絶対に大変なことが起きているぞ」とぼくは確信した。

ぼくは必死になって、おばあちゃんにしがみつこうとした。

すると、普段はあんなに力が弱いはずのおばあちゃんが、やっぱり黙ったままで、ものすごい力でぼくをはねのけた。ぼくは勢いよく後ろへ吹っ飛ばされて、ふすまのところまで転がってしまった。

やっぱり火事なんだ!

おばあちゃんは、一人きりで火を消そうと必死になっているんだ。

そう気づいた瞬間、「おばあちゃん一人じゃ絶対に無理だ!」と思った。ぼくはすぐに部屋を飛び出して、お父さんとお母さんが眠っている離れの部屋へと走り、
「お父さん! お母さん!」
と、ありったけの大声を張り上げた。

さっきまでぼくの部屋の外で吠えていると思っていたポチが、いつの間にかぼくの後を追ってきていて、キャンキャンと激しく鳴き叫んでいた。

ぼくが大声をあげるのとほぼ同時に、お母さんがパジャマ姿のまま勢いよく部屋から飛び出してきた。

「どうしたの!?」
お母さんは、ひそひそ話のような切迫した小さな声で、ぼくの両肩をぎゅっとつかんで聞いてきた。

「大変なことが起きたんだ……」

「大変なんだ、ぼくの部屋が火事になっちゃったんだよ!」と言おうとしたけれど、のどが詰まってしまって、どうしても「大変なの」から先が声にならなかった。

ぼくの肩をつかむお母さんの手は、ぶるぶると震えていた。

お母さんはぼくの手を引っ張って、ぼくの部屋へと向かった。開け放たれたふすまの隙間から真っ赤な炎が見えた瞬間、お母さんは「あれえ!」と叫んで、ぼくの手をパッと振りほどくと、そのまま火の出ている部屋へ飛び込もうとした。

ぼくは必死になって、お母さんにがむしゃらにしがみついた。

その時、お母さんは初めてそこにぼくがいることに気づいたかのように、ハッと下を向いてぼくの耳元に口を寄せた。
「早く、早くお父さんを起こして! それからお隣の家に行って、お隣のおじさんを起こすの! 火事ですって伝えるのよ! いい? 急いで!」
お母さんは、一気にそう言ったようだった。

そこへ、お父さんも走ってきた。

ぼくはお父さんには何も言わず、すぐに玄関の上がり口へと向かった。

玄関のあたりは真っ暗闇だった。

ぼくは裸足のまま土間に飛び降りて、鍵をガチャリと外して、なんとか戸を開けることができた。

すぐに外へ飛び出そうとしたけれど、「裸足で走ると足を怪我して、恐ろしい病気になってしまうよ」とお母さんからいつも言われていたことを思い出した。暗闇の中で手探りで床をあさってみると、大きな草履が見つかった。誰のものか分からなかったけれど、それを急いで履いて外へと飛び出した。

外も真っ暗で、冷たい風が吹いてとても寒かった。

普段の夜なら、気味が悪くて一人で外を歩くなんて絶対にできないけれど、この夜だけは怖さなんて全く感じなかった。

ただ、暗闇の中で何かに引っかかって転びそうだったから、ぼくは足を思いっきり高く上げながら、全力で走った。

ぼくのことを怪しい泥棒とでも勘違いしたのか、突然ポチが走ってきて、吠えながら飛びかかろうとした。でも、すぐにぼくだと分かると、ぼくの前を走ったり後ろに回ったりしながら、門のところまで一緒についてきた。

そして、ぼくが門の外に飛び出すと、ポチはしばらくぼくの姿を見つめていたけれど、すぐに何とも言えない奇妙な鳴き声をあげながら、また家の方へと駆けて戻っていってしまった。

ぼくも夢中になって走り続けた。

お隣のおじさんの家の門を叩いて、
「火事だよー!」
と、二、三回大声で叫んだ。

「その次の家の人たちも起こした方がいい!」と思ったぼくは、さらに隣の家の門も叩いて、また大声で叫んだ。

そして、またその次の家へと走った。

ふと自分の家の方を振り返ってみると、さっきまで真っ暗だったはずなのに、屋根の下のあたりから赤い火がちょろちょろと燃え上がっているのが見えた。

パチパチと、まるで焚き火をしているような不気味な音が、遠くから聞こえてきた。

そして、闇の中に響き渡るポチの激しい鳴き声も、はっきりと聞こえていた。ぼくの家は、町からずっとはなれた高い場所にある「官舎(かんしゃ)」という、お役所の人たちが住む町にあったんだ。だから、ぼくが「火事だよー!」って叫びながら走った家は、みんな知っている人たちの家ばかりだったよ。

ふと後ろをふりかえってみると、二、三人の黒い人影が、ぼくの家の方へ向かって走っていくのが見えた。
ぼくはそれがすごくうれしくて、ますます元気を出して、次の家、またその次の家へと大声で知らせてまわったんだ。

二十軒くらいの家をそうやって回っているうちに、ぼくは自分の家からずいぶん遠いところまで来てしまっていた。
急に周りが静かになって、なんだか怖くなって、ぼくは立ち止まってしまった。
そして、もう一度家の方を見てみたんだ。

火はもう、さっきよりずっと激しく燃え上がっていた。周りにある木や板のへいが、まるで絵にかいたみたいにはっきりと浮かび上がって見えたよ。
風がなかったから、火はまっすぐ上の方へと燃え広がって、火の粉が夜空高くへと舞い上がっていった。
パチパチという音だけじゃなくて、パン、パン!と鉄砲をうっているような音まで聞こえてくる。

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