女のお八重に吊れるものが、男の、まして大工のお前さんに吊れないんだ」
圓朝は笑った。
「でもそんな、そんな。そんなはずはほんとにないんだけれどなあ」
なおもひとしきり小首を傾げて考えていたが、やがてのことにポンと手をうって、
「あ、わかった師匠。じゃああなた、あっしの吊った棚へなにか載せやしませんか」
「おいおい、いい加減にしよ、馬鹿馬鹿しい。世の中に載せない棚なんてものがあるもんかネ」
あきれ返って圓朝はもうなんにも言わなくなると、しばらく細い目をパチパチさせていたが、
「まあ、そんな話はどうでもいい。ここに紋付が出ているから早くそれを着ておしまい。すぐ近江様へ年忘れの芝居噺のお座敷にゆくんだ。いいかい、私も着替えてくるから」
言いつけたまま奥へ入っていった。
まもなく支度のできた二人は、代地河岸の家を後にした。
うやうやしく三つ扇の黒紋付を着た圓朝の後から圓太郎は、芝居噺の道具の入った大きな風呂敷を担いで両国橋を東へ。
横網の近江様のお屋敷へと急いだ。
近江様侯爵邸を俗に近江様という、横網の岸っぷちに名物の赤い御門が見えていた。
その赤門のくぐりから圓朝主従は入っていった。
案内を乞うと、用人がすぐ二人を楽屋にあてられた休息所へ連れていった。
が、圓太郎はそこにオチオチしていられなかった。すぐに芝居噺(しばいばなし)の道具を組み立てなくてはなりませんでした。
圓太郎は背負ってきた大きな風呂敷を広げると、舞台のほうへ向かい、定式幕(じょうしきまく)や遠くの景色を描いた背景、そして稲の山(稲叢)の小道具を飾りつけました。
それから、腰を引けさせながら欄間(らんま)のところへ登ると、またしても不器用な手つきで金槌を握り、今度は木を立てたり、灯り入りの月や両袖の幕などをトンカチンと打ちつけていきました。
「こんなに高いところへ登っていると、目がくらんで足がガタガタ震えてどうしようもないや」
片手を柱に巻きつけるようにしてしがみつき、一番大きな杉の木のバランスを整えようとして、片手で金槌を振り上げたその時でした。
ビリッ!
着ている綿入れの袖を小枝に引っ掛けてしまい、ひどい鍵裂きを作ってしまいました。
「しまった!」
ギクッとした拍子に手が疎かになり、金槌はスルリと指の間をすり抜けて下へ落ちていきました。
「いけない、重なる時は重なるもんだな」
圓太郎は悔しそうに舌打ちをしました。
その時です。
十歳くらいでしょうか、まるで内裏雛(だいりびな)のように上品で可愛らしい男の子が、藤納戸色(ふじなんどいろ)の紋服を着て、おもちゃのような小さな刀を差し、お供も連れずにチョコチョコと駆け出してきました。
ヒョイと下の子を見下ろすと、圓太郎は言いました。
「おい、坊や」
「…………」
男の子は立ち止まり、不思議そうに彼を見上げました。
「いいところへ来てくれたな、坊や。すまないが、お前の足元にある金槌をちょっと拾ってくれないか」
圓太郎は口を尖らせ、その唇で金槌の場所を指し示しました。
「これか?」
言われるままに男の子は金槌を拾い上げると、圓太郎のほうへ手を伸ばしました。
「それだ、それだ」
圓太郎は伸ばした右足の親指と人差し指で、その金槌をヒョイと挟み取りました。
「ありがとよ、坊や。あとで小父さんが、うんと美味しい南京豆を買ってやるからな」
「この馬鹿野郎、いい加減にしろ!」
あっけにとられていた男の子が廊下の向こうへ行ってしまった直後、顔を真っ青にした師匠の三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう)が飛び込んできました。
「なんて真似をするんだ、圓太郎! 世の中に、お前のような不作法極まりない男がいるか!」
圓朝はたまたま道具の確認をしにやってきて、隣の部屋からこの光景を見ていたのです。
「今のはこちらの若様じゃないか」
「…………」
「高貴なお方に金槌を取らせるだけでも大失態なのに、足の指で受け取るなんて、一体どういうことだ!」
「…………」
「おまけに『坊や、あとで南京豆を買ってやる』だと? 近江様(おうみさま)の若様が南京豆なんか召し上がるか! 私は聞いていてヒヤヒヤしてハラハラしたよ」
光る圓朝の額には冷や汗がにじみ、息遣いもただ事ではないほど乱れていました。
「申し訳ございません。本当に、なんともはや……」
ようやく圓太郎にも事の重大さがぼんやりと分かってきて、欄の上から頭を下げました。
「私に謝ってどうなる。ことによると、お前は『お手討ち』になるんだぞ」
圓朝は情けなさそうに言いました。
「…………」
しかし、そう聞かされても圓太郎は顔色一つ変えません。ただキョトンと首をかしげているだけでした。
「冗談じゃない、お前、お手討ちだよ!」
圓朝はさらに追い打ちをかけました。
「そうですか、お手討ちですか。ええ、よろしゅうございますとも」
圓太郎はますます落ち着き払っていました。
「あれ、この野郎、お手討ちを平気で聞き流しやがる」
あきれたように圓朝は言いました。
「圓太郎、お前いったい『お手討ち』って何だか知っているのか?」
「…………」
圓太郎は首を左右に振りました。
「いいか、よく聞けよ。お手討ちっていうのはな、武士が新しく手に入れた刀を試すために斬ることだ。お前の首と胴体が生き別れになるんだぞ!」
世にも恐ろしい顔つきで圓朝に言われた瞬間、
「えっ! 私の首と胴体が離れる? そ、そ、それは……ヒィッ、人殺し!」
悲鳴を上げた圓太郎は、立ったまま全身を硬直させ、白目をむいて両手を高く突き上げました。その拍子に、
ガラガラガラガラン、バリバリドタドタドタドタン、ピシッ!
仰向けに倒れた彼の体は、芝居噺の美しい道具の中に突っ込み、そこらじゅうをめちゃくちゃにしてしまいました。
「謝っておいてくださいよ、師匠! ごめんなさい、ごめんなさいよう!」
そう叫びながら慌てて起き上がった圓太郎は、脱兎のごとく駆け出して逃げていってしまいました。
その晩のことです。
「お前のような馬鹿馬鹿しい奴を、いつまで三下(さんした)同様にこき使っていたのは私の間違いだった」
その晩、代地(だいち)の家で、圓朝はまだ青い顔をしたままの圓太郎を前にして、しみじみと言いました。
「お前のような男は、一人前の真打(しんうち)になって初めて、その人間の馬鹿らしさまでが人から褒められるようになる。こうやって三下でくすぶっているうちは、いつまでもいつまでも馬鹿扱いだ」
「…………」
「これは、今の日本の国のこととして考えてみても同じだろう。たとえば『国民皆兵(こくみんかいへい)』……」
言いかけて、ふと圓朝は口を閉じました。
「国民皆兵」なんて難しい言葉の意味が、圓太郎に分かるはずがないことに気がついたからでした。「つまり、国民はみんな兵隊さんだと言われるけれど、身体が軍隊に向かない人は、それぞれの商売に一生懸命励むことで、お国のために奉公すればいいんだよ。お前もそれと同じだ。前座や二つ目のような、こまごまとした雑用はやめて、芸一本に絞って血の汗を流すような覚悟で進むより他にないだろう」
「…………」
「まったくな、お前は生まれながらの落語家だよ。することなすこと、一つひとつがみんな落語になっている。
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