そのあげくがトラホーム(目の病気)になって、治療も長引くし、家中にうつるからと言って、今度は娘が実家へ突っ返されてきたんですがね、病院へ連れて行こうにも、そんなお金はなくてもともと、生活すら楽ではない家なのに……。」
「文句は亭主に言えよ、亭主に。」
八郎の声は少し苛立ったようだった。
「そんなことを言ったってねえ、言えるものならいいんですけれどもねえ……。」
「きみの亭主にだよ、娘の病気のことさ。
――いや、婿にだよ、そんな苦労を誰が知るもんか。」
「そう、そんな冷たいことばかり言わないでおくれよ。」
お久という人はまた袖を顔に当てて泣いた。
「私だって、私だって――生まれてからまだ一日も、一日どころか一度だって、血のつながった親身の優しい言葉をかけてもらったことのない私なのに――こんなに会いたくて、やっと逢えたのに……」
「抱きしめたって愚痴をこぼしたって何にもならない――現金がなくなくっちゃあ、きみたちはどうしようもないんじゃないのかい。」
「もう、あんさんはそんな風に意地悪ばかり言うんだから。」
「さあさあ、お茶碗の一つぐらいひっくり返したって構わないさ。
威勢よく、もっと威勢よくやりなよ!……さあね。」
結綿(ゆいわた)の髪飾りの片端を揺らしながら、お悦が皿や小鉢、そして大皿まで食卓へ運んできた。
テーブルの上には、いつの間にか大きな鯛が尾をピクリと跳ねさせていて、二人が隠れていた台所の方から、お酢のいい香りと、温かい湯気がもくもくと立ち上って漂ってきた。どうやら早寿司(はやずし)の仕込みらしい。
「お兄さん――さあ、お久さん……こちらへどうぞ。」
「それでねえ――お金のことがどうこうと言うわけではないけれど、亭主をはじめとして、娘のその婿もね、そりゃあもう謡(う謡曲)が大好きなんですよ。
……うちの息子もねえ、一人は鉄葉屋(てつばや)のほうへ、一人は建具屋の弟子に入っているんですが、どっちも謡が大好きでねえ。
二人ともねえ、好きだというだけでなく、あんさんのお弟子にもなりたいと言っていましてねえ……やっぱり血統は争えないものなんですねえ。」
お悦が膳の上の配置を整えながらこれを聞くと、すっと眉をひそめた。
八郎の顔色が気になって、思わず顔を見やってしまう。
「婿もねえ……やっぱり、自然と血のつながる縁だからこそ、あんさんにお逢いして、謡だとか、舞いだとかいうものを……。」
「べらぼうめ!」
突然、猛然と立ち上がった八郎は、尖った銀杏返し(いちょうがえし)の髪を揺らしながら、膝をぐっと直して敷居の外へと出て行ってしまった。
「そういう了簡だからいけないんだ。
……ほら、さあ、御馳走だよ。
食べると言ったら、鱈ふく食べるんだ、遠慮なんかしないで、食べられるものはさっさと食べるんだよ。
謡なんて言っている暇があったら、お互いすき腹がぐうぐう鳴っているじゃないか。」
五
「――伯父だの、甥だのって何だ。
……姪の婿がどうしたっていうんだ。
他人様のたいむすめを……まだ年若い十七八だろ。
(お月様いくつ)なんて数える年齢のほかに、年季奉公の年数ばかりが唄になるような、そんな年頃の娘じゃないか。
謡なんかうたっている暇があったら、神仏にでも祈っている方がましだ。
私なんかさ、二十二三の中年増になってからようやくお酌をしてもらったというのに……このざまだ。八郎は雪代からお酒を注いでもらうと、行儀よく「いただきます」と受け取りました――ですが、お酒をもらったのは今が初めてというわけではなく、すでにいい具合に酔っぱらっていました。
実のところ、私もすっかりいい気分になっていました。
「このお肉は、土手で売っているような馬肉なんかじゃない。むしろ、行き倒れの女郎の切売りだってお金を払うくらい、今の世の中じゃ高いものだろうよ。
なのに女房というものは、タダ同然で連れてこられるんだ――娘には……タンスや長持ちから、下駄、傘、枕に熨斗(のし)までついてくるってのにさ。
お前のところなんて、風呂敷包みひとつきり、中身がからっぽだったとしても、結び目をきれいな蝶々結びにしてやったんだろ。
そんな荷物をすっぽんぽんで背負い込んで嫁に来たって、空を飛べるわけでもないし、ただ苦労の吹きだまりに放り込まれるようなものじゃないか。
もったいなくも、朝の暗いうちから廊下や敷居をうつぶせになって這いつくばり、雑巾がけをさせられる。
かまどに火をつけさせ、重い水を汲ませ、味噌こしを使って豆腐を買いに行かせ、丼を持って剥き身の貝を買いに行かせるのも、ぜんぶ女房の仕事だ。
用事の合間にはお客さんの取次ぎや、お茶の給仕までやらされる。
おやつの時間が過ぎれば、もうそろそろ晩ごはんの支度にとりかかり、お米をとぐ。
……皿や小鉢を洗うだけでも、まるで冷たい滝に打たれているような水仕事の合間に、亭主の肌襦袢の洗濯から、まるで恐ろしい妖怪みたいな意地悪なおばあさんの鼻紙の洗濯までさせられるんだ。
暗いあかりの下で足袋の継ぎはぎをして、あかぎれでぱっくり割れた手なのに、ケチでお金を出さないから炭もろくにおこせない――自分の息を吹きかけて手を温めるヒマすらないまま、鬼婆みたいな姑の肩や腰を、擦ったり揉んだりさせられる。
そのあげくが、夜になれば布団の上げ下ろしをし、丸枕のカバーの取り換えまでして、「旦那様、お休みになれ」だ。
男の一生に一度の運が向いてきて、お金持ちになって、人気の芸者や女郎に惚れられたって、ここまでのこき使われ方はしないだろうさ。
自分の好きなように抱き放題にして、夜が明けるまで休む暇もない。
竜宮城からすごい宝物を手に入れたって、いくら振ったり叩いたりしたって、あんな鬼のような姑は出てきやしない。
本来なら、お仏壇の仏像みたいに神棚の高いところにでも飾って、一日三回おいしいお供え物を取り替えて、一日に一度だけでも扉を開けてありがたく拝まないと、バチが当たるってもんだ。
……
それなのにさ……ありがたい神仏の大きな慈悲のおかげで、そんな大事にされることもなく、世間の決まり文句の通り、自分の好きなようにすり切れるまでこき使っておいて、なんだい!
ふんどし一つ買ってやらないくせに、実家の母親のところへ行ってはお風呂代の無心や、下駄の歯を直すお金までせびらせるなんて、いったいどういうことなんだ。
女房っていったい何を頼りに生きればいいんだよ。
せめて病気をした時くらい、優しい言葉でもかけてもらって、苦い薬でも飲ませてもらおうと思えば、なんだって?
「トラホームはうつるから実家に帰れ!」だって?
馬鹿野郎、いっそ目が見えなくなってボコボコと下手くそな琴でも弾いて暮らせってのかよ!
おまけに、妹の娘だの、姪の婿だのという縁を頼りに、俺に謡曲を聞かせろだとか、舞を舞えだとか言うんだって?
ふざけやがって、そんなろくでもない酒を持たせて、目の前五六尺(約1.5〜1.8メートル)のところに顔を出してごらんよ。
芸は未熟でも、扇子でめった打ちにしてやるから、私の腕が鳴るぜ。
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