私たちがお豆腐や剥き身を買うみたいに、なんだか普通に使っていらっしゃるようだけど、その塗り物といい、蒔絵の美しさといい、形といい、ものすごい美術品なんだそうですねえ」
「へーい、なるほど」
「フランスのパリの、何とかっていう貴族のお屋敷の応接室で、ヴァイオリンですか、楽器をのせる台に使われているんですって」
「へーい、なるほど」
「その提灯(ちょうちん)を一つ貸してくださいな」
「へーい、なるほど」
「そこの道具屋さんで借りればよかったのに、ついついウッカリしちゃってねえ」
「へへい、なるほど。――どちら様で?」
「寺の別院のそばの、紅屋の者ですがね、どちらだって構わないじゃありませんか」
お悦はすまし顔で、その家紋のついた提灯を下げて店の前に立つと、一柳亭のそばから、川へと続く石段を伝って、グイグイと下っていきました。
大橋の橋の杭が、昼間に見た山の塔の高さのように下から見上げられる、橋のたもとのくぼ地です。それは、柳の名所であり、雪女郎の言い伝えがある根っこの場所でした。
「ここが暗いんですからね。
――ちょっと見てみたいことがあるんです」
川の反対側の窓の明かりが、お悦の中指のべっこうの指輪をちらりと照らしだし、彼女の綺麗な円髷(まるまげ)の上を飛び越えて、川の水に冷たい鬼火(おにび)のような光をパッと散らしました。
しかし、かがみ込んで、差し出した提灯の明かりで見ると、ああ、その柳の根元に、まるで叩きつけたかのように、秋の花をいけた花瓶がガラガラと音を立てて壊れていました。
まるで、石に変わってしまった天女の羽衣を、木っ端微塵に打ち砕いたかのようです。
その壊れた破片のあちこちには、女郎花(おみなえし)や、桔梗(ききょう)、萩(はぎ)の花が散りばめられ、流れる水がサッと脈を打つように蒼白く光っていました。
「ご覧なさい。
やっぱりこうなるんじゃないかと思ったんです。
子供のころ、あの人はこの美しい柳の木に心を奪われたのか、それとも何なのか、なんだかフラフラとして、何度もここで死のうとしたんですから――いいえ……」
とお悦は優しい声で言ってから、こう続けました。
「大丈夫、かえって身代わりになってくれたんでしょうよ。
この花瓶がね。
でも、あの人の無事を祈るために、今日は生き物を逃がしてあげる『放生会(ほうじょうえ)』をして行きましょう。
昨日は大きなフナを料理しましたからね」
持ってくれとも言わず、角樽を柳の枝に預けると、着物の裾をグイッと持ち上げて、きゅっと引き締まった足のなんと白いことでしょう。
――姿もなまめかしく、川の流れへと突き出した板の足場を踏みしめると、大川の水面には箱造りの生簀(いけす)が浮かんでいました。
「おや、それを逃がしてあげるんですか?」
「ええ、一柳亭の生簀なんですけどね。やるべきことは先にやっておいて、あとから文句を言われたほうが話が早いですからね」
お悦は背伸びして中を覗き込みましたが、綱で結ばれているものの、錠前(鍵)は下りていません。
しゃがみ込んで、提灯をかざしたかと思うと、
「あ、気味が悪いわ」
と言いました。
「大きなウナギがいますか? それともナマズですか?」
「お退きなさい、お退きなさい――」
とお悦は生簀をじっと見つめ、頭をブルンと横に振って言いました。
「いいえ、私が何か悪いことをしようとすると、ときどき目の前に現れるんです……。
羽織袴を着た、頭の大きな、変な小人がね」
私は思わずうしろへと飛び下がりました。
葉はハラハラと落ちていきながらも、柳の茂みのせいで、まるで激しい滝に巻き込まれるような恐ろしい気持ちがしたのでした。気のせいかと思ったけれど、実はさっきお悦が八郎をピシャリと叩いた時にも、舞台の端っこをちょこちょこと古い福助(※縁起物の小人人形)の人形が走り抜けていったのでした。
「嫌(いや)だったらどうするんだい、この出額助(でぶたすけ)め!」
そう叫ぶと同時に、お悦は乱れた髪を払い除け、提灯の柄を口にパクッとくわえました。そして、まくった腕で生簀(いけす)を二度三度と激しく揺らし、ドブンと水の中に沈めました。
鯉(こい)がピョンと跳ねる隙さえありません。
まるで魔物のように大きくて黒い橋の杭たちが、ズラリと並んで、ドブンドブン、ドブンドブンと物すごいこだまを返しました。
「さあ、行きましょう、お待たせしました!
八さんのいる場所は、だいたいもう分かりましたからね……」
十
「……いる、いる、ここにいますよ」
お悦はフッと提灯の明かりを消しました。
……ロウソクの甘い香りを吸い込んで消えた、その紅い唇のすぐそばで、彼女は私の耳にこっそりと囁いたのです。
そこは、八郎のお墓があるお寺の小さな潜り戸(くぐりど)を入ったところ、釣鐘堂(つりがねどう)のすぐ横手にあたる、お墓のエリアへと続く古い木の扉の前、生垣のすぐそばでした。
「ほら、扉も少し開いていますわ。
――先生、あなたは少し離れた場所から、こっそり様子を見ていてくださいね。
……一生のお願いですから!」
「言われた通りにするよ」
私もここは声を潜めなければなりません。
「お兄さん、お兄さん――」
「うーむ」
「まったく、通り一遍の返事なんだから。『うーむ』なんて」
「うむ、って言ったのさ」
「もう少し驚いてくれないと困ります。
……だって、突然お能の舞台からお墓にワープしちゃったようなものじゃありませんか。
そこへ私が暗闇の中からひょっこり現れたんだもの」
「なんだか、誰か来そうな気がしていたところだったからね」
「ええ、私もここにお兄さんがいるような気がしたんです。
お兄さん、ごめんなさいね。
あれ、タバコを吸っているんですね」
「お墓を手で探って、この冷たい青いコケをなさぐっていたら、マッチが見つかったんだ。
――今朝、ここに忘れちゃったものらしい。
それに、ちゃんと焚き木(たきぎ)まで残っていたよ。
ああ、それよりも何より、先生はどうしたんだい? 槙村(まきむら)さんは一緒じゃないのかい?」
私は約束どおり、グッと息を飲み込みました。
「先生はね、とにかく、雪代(ゆきしろ)がお供をして、ちゃんと大切におもてなしをしていますよ」
大嘘をつけばいい。
――
「どこで?」
「一柳亭(いちりゅうてい)で」
「また一柳亭かい。
いやあ、それにしても羨ましいな。
いっそ魂を入れ替えたいくらいだ。
――もっとも、自分の魂がどこへ飛んでいっちまったのか、当分は分からないから、まずはその居場所を探すところから始めなきゃならないけれどね」
「だからこうして、お墓に来ているんじゃないですか」
「まあ、そういうものかね。
――ああ、それにしても羨ましいなあ」
「冗談はもうおしまいにして、お兄さん、本当にごめんなさいね」
何をさ?」
だって、あんな場所で、お兄さんを叩いたりなんかして……」
「いや、そのことなら、かえって礼を言うよ。
……当然のことをされたような気がするんだ。
なんだか、妹のことだとか何だとか、誰かに頭を思い切り叩かれそうな気がして仕方がなかったからね。
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