あるとき卓一が夜更けに大念寺へ帰ってくると、雑然と立ち並ぶ墓石のなかに人影があった。由子が深夜の墓石の上に腰を下ろしていたのだ。
「長いこと待っていたのかい?」
「化石するほどね。ほら、お墓を台にした彫刻のように、もう動けないわ。手を貸して」
卓一は、由子の姿勢を崩させたくないという思いに打たれ、しばし凝視することをやめられなかった。その美しさに打たれたのだ。
「寒くないのかい」
「そう思うなら起こしてくれればいいじゃないの。返事もしないでじっと見つめていないでよ」
この美しさで十分なのだと、卓一は思わずにはいられなかった。東京へ残してきた腐れ縁の二、三の女。卓一に恨みを抱いているであろう女たち。同じ姿がもしその人々のものであったなら、そこには幽霊が持つ悪どい凄味(すごみ)があるだけだろうと彼は思った。原始の形態は、とにかく不快だ。とにかく加工が必要なのだ。たとえ、それが退屈な作業であったとしても。
オスカー・ワイルドに『カンタヴィルの幽霊』という物語がある。幽霊が現れる古城をアメリカの娘が買い、幽霊が秘術を凝らして脅かしに出るが、娘が面白がるばかりなので、逆に幽霊の方が悩んでしまうという物語だ。日本の落語にも、同巧異曲(どうこういきょく)のものはある。恐るべき幽霊たちを、人々の友達に改造し直す必要がある。我々のわずかしかない安息のために。
しかし、落語の作者たちもワイルドも、幽霊の本質的な姿を見失っているのである。幽霊の見た目そのものは、決して恐ろしいものではない。
恐るべき唯一のものは、死んでもなお恨みを晴らそうとする、あの忌々しい原始的な思想そのものだ。
この恐るべき思想を、人間味のある親友のような存在へと作り変えた人物がいる。ゴーゴリだ。
彼の作品『外套』に登場する幽霊がまさにそれにあたる。
卓一は、そうした「加工」を愛していた。
それこそが新しい生活というものだ。そして、努力を注ぐに値する価値があるものだ。
彼はアメリカ的な精神の中に、そうした希望の兆しを見ていたのだった。
由子が旅から戻ってきた。
そして卓一を訪ねた。
「山の匂いがしない? 駅のホームからまっすぐここへ来たのよ」
山の宿で、野々宮の神経衰弱がひどくなっていた。
野々宮の疲れきった神経が、突然、由子の心にもつれ込みはじめたのだった。
明確に思い当たる原因があった。
それを卓一に語ることが楽しいような、あるいは馬鹿らしいことのようにも思えた。
とにかく由子は、野々宮と別れることをはっきりと心に決めていた。
旅行の前から、すでに心は決まっていたのだ。
由子は思わずにはいられなかった。
なんのために旅に出る気になったのだろう。
卓一という新しい人がいるというのに。
その心を強めるために役立った旅行ではあったけれど、もともとそんな目的で出かけたわけではなかった。
山が由子を呼んでいたのだ。そして高原を覆う果てしない冬が。
それもただ退屈でしかなかったのだけれど。
「駅のある里まで来たら、自分のひどいみすぼらしさに気がついたわ。山にいるうちは忘れていたのに」と由子は言った。
「自然って、ちっとも人を脅したりしないものね。思い出すと身体にじわじわと沁みてくるみたい。もう山には棲めないわ。自分のみすぼらしさが愛おしくてたまらないから。汽車の中でずっとそのことばかり考えていたのよ」
しかし旅の毎日は、憂鬱でしかなかった。
野々宮の神経が、堪えがたい負担だったからだ。
野々宮はほとんど一日中、黙りこくっているだけだった。
電気を帯びた針金のような神経だけが、執拗に由子に絡みついてくるのだった。
なんて腹立たしいことだろう! 沈黙の底に、彼の憎しみが化石のようにこびりついていた。
それが由子の胸を刺した。
気違い。
なんて卑劣な男だろうと、由子は思い続けていた。卑劣な男。
旅は終わった。すべての終わりであることが、二人にわかりかけていた。
汽車が新潟へ近づくと、野々宮はもう一度山へ戻りたくなったと言い出した。
「まるで山へ忘れ物をしてきたようだ。忘れてはならないものを。たったひとつの……」と野々宮は言った。「どうしても、戻らなければならない気がする……」
由子は沈黙を守っていた。
すると由子の沈黙に応えるように、彼の神経が皮膚の上でいらつきはじめた。
まるで自らの神経に追い詰められているようだった。
やがて彼は言った。
「僕は山へ戻らなければならないのです。仕方がないから」
「じゃあ、戻りなさい」由子は突き放すように言った。
そして冷たく付け加えた。「私は、嫌よ」
「そうか」野々宮は頷いた。
子供のように素直な動きに見えた。そして彼はこう言った。
「ひとりの方がいいのです」
しかし、野々宮の皮膚でいらついていた神経が、すべてひとつの憎悪へと変わった。
野々宮の白皙の顔は、すでにやつれきっていた。
年齢とは無関係な疲労の小皺が、顔全体に刻み込まれている。
瞳はいつも濁っていた。
その瞳の底に、まるで生き物であるかのように憎しみが宿っていた。
すでに死の澱(おり)をたたえた疲労の顔が、その残忍な憎しみによって蘇り、目ざましく息づきはじめた様子は、あまりに不気味だった。
「なんて眼つきだろう」由子は戦慄と怒りを覚えた。
殺してもなお憎み足りない、という眼つきだった。
このような残忍な眼は、向けられたことも初めてなら、見ることすら初めてだった。
いや、想像すらできなかったものだと思った。
鬼畜ならともかく、人間にはありえない眼つきなのだ。
いいえ、憎しみのこめられたその眼つき自体が、特殊なひとつの生き物だった。
「なんて卑劣な心の持ち主だろう……」怒りに目がくらみ、由子は心の中で叫ばずにはいられなかった。
すでにその肉体は衰え、むしろ息絶えているというのに、憎しみだけが生きているその嫌らしさ。
死体に宿った虫の意志を見るような不潔さだった。
わななく手。震える唇。
なんて執拗で、自分勝手な心なのだろう。そして、なんて卑劣な執拗さだろう。
怒りと蔑みのために、由子は顔を背けたかった。
「山へ戻るなら、早く戻ったほうがいいわね」と、由子はさらに冷たく言った。
「遅くなると日が暮れてしまうわ。なんて日が短いのでしょう。次の駅で引き返しなさい」
野々宮は頷いた。
そして長い沈黙のあと、彼は言った。
「思いがけない旅行になりましたね」
これもまた、ひとつの不思議な生き物のような冷たい笑みが、彼の唇に絡みついていた。
それもまた、死肉に宿った虫だった。「ひとりで帰ること。
この旅は思いがけない結末になりましたが、もうひとつの旅、つまり人生という旅もまた、同じようなものなのでしょう。
ひとり帰るということは、誰にでも定められた約束のようなものです。
ただ、人生というもうひとつの旅こそが本当の旅であるはずなのに、ひとりで帰るという同じことが、人生においてこれほど世知辛く感じられないのは、むしろ滑稽なことですね」
いつもの野々宮の弱々しさが戻ってきていましたが、もはや由子には、その心の底に燃え尽きることのない、ふてぶてしい執念しか見えませんでした。
そのしつこさと、冷え切った心に、由子は嫌悪感を抑えることができません。
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