初級翻訳・和太郎さんと牛 第3話

和太郎さんと牛

 「さあ、なめな」
 牛は、「おり」の上に首を下げて、しばらくじっとしていました。
 それは、においを嗅いで、これがうまいものなのか、まずいものなのかを判断しているように見えました。
 見ている百姓たちも、息を殺して「牛は酒を飲むんだろうか、飲まないんだろうか」と見守っていました。
 牛は舌を出して、ぺろりと一なめしました。
 そしてまた、しばらく動きません。
 口の中でその味をよく調べているに違いありません。
 見ている百姓たちは、あまりに息を殺していたので、胸が苦しくなるほどでした。
 牛はまた、ぺろりとなめました。
 そしてあとは、ぺろりぺろりと夢中でなめ、おまけに「ふうふう」という鼻息まで混ざったので、とても忙しそうになりました。
 「牛というやつも、酒好きな生き物みたいだなあ」
 と、村人のひとりがため息混じりに言いました。ほかの村の人たちは、自分が牛ではないことを、とても残念に思いました。
和太郎さんは、牛がおいしそうに「おり」をなめるのを、うれしそうに眺めていました。
「おォよ。食べろ、食べろ。いつもおまえの世話になっているから、お礼をしなきゃならんと思っていたんだ。だが、おまえがこんなに酒好きだとは知らなかったよ」
牛は手前の「おり」がなくなると、ひと足進んで、向こう側にこぼれた「おり」をなめました。
「牛のくせに、大酒飲みだなァ」
と、村人のひとりが、ほしいおもちゃをもらえなかった子どものように、すねた声で言いました。
「いくらでも好きなだけ食べろ」と和太郎さんは、牛の背中をなでながら言いました。
「酔っ払うまで食べろ。酔っ払ってもいいぞ、今日はおれが面倒を見てやるからな。今日こそ、一生に一度の恩返しだ」
ついに牛は「おり」をすべてなめきり、あとには土だけが残りました。
あたりはすっかりうす暗くなっていました。
和太郎さんはまた牛をくびきにつけました。
青い夕かげが流れて、そこらの垣根の木いちごの花だけが白く浮かび上がっている道を、お腹いっぱい食べた牛と、日ごろの恩を返したつもりでいる和太郎さんが、二人とも満足した気持ちで、のろのろと歩いていきました。

四

さて、和太郎さんも、今日だけはお酒を飲むのをやめようと心に決めていました。
和太郎さんの考えでは、牛が飲んだうえに、牛飼いまでが飲むのは、だらしのないことだと思ったからです。
しかし、それなら和太郎さんは、帰り道を一本松と茶屋の前を通るルートにしてはいけませんでした。
少し遠回りにはなりますが、火葬場のほうにある寂しい道を通ればよかったのです。
ですが、和太郎さんは「なァに、今日は大丈夫だ」と思いました。
「おれにだって、自分を抑えるくらいの分別はあるさ」と独り言を言いました。
そして、一本松と茶屋の前を通りかかりました。
お酒好きな人の考えというのは、お酒の近くへくると、よく変わるものです。
和太郎さんも、茶屋の前までくると、石のように固かったはずの決心が、豆腐のように脆(もろ)く崩れていくのを感じました。
実は和太郎さんも、牛に酒の「おり」をなめさせているとき、自分も喉から手が出るほど飲みたかったのを、一生懸命おさえていたのでした。
その欲望が、茶屋の前で急に頭をもたげてきました。
「ま、ちょっと一服するくらい、いいだろう」
と和太郎さんは、手綱を松の太い幹に巻きつけながら言いました。
牛はいつものようにおとなしくしていました。
そして和太郎さんは、手をこすり合わせながら茶店の中へ入っていきました。
いつもの通りでした。
もう一杯、もう一杯と言っているうちに、時間はどんどん過ぎていきました。
徳利の数も増えていきました。
茶屋のおよしばあさんが、いろいろと和太郎さんの世話を焼いて、松の木から手綱をほどいてくれたり、小田原ちょうちんに火をともしてくれたのも、いつもの通りでした。
ただ、牛が地面の上に横たわっていたことだけが、いつもと違っていました。
およしばあさんは、そうとは知らなかったので、あやうく牛につまずくところでした。
和太郎さんは、
「坊よ、起きろ」
と言いました。
牛は、ふううッと太くて長い鼻息で答えただけで、起きようとしませんでした。
「坊よ、お腹でも痛いのか。起きろ」
と言って、和太郎さんは手綱でぐいッと引っ張りました。
牛はのろのろと、ものうげに体を動かして、まずお尻のほうから立ち上がりました。
前足は二つに折ったまま地面につけた状態でしばらくいて、大きな鼻息を立て続けていました。
「あら、いやだよ。この牛は。まるで鍛冶屋のふいごみたいに、ふうふう言うんだもの」
とおよしばあさんは言いました。
「まるで、酔っ払いみたいだよ」
その言葉で、和太郎さんはようやく牛もたくさん飲んだことを思い出しました。
そこでおかしくなって、げらげら笑って言いました。
「本当に、その通りだ」
やっとのことで牛が前足を立てると、和太郎さんはいよいよ家に向かって出発しました。
いつもなら茶屋のおよしばあさんは、和太郎さんが出発してからかなり長いあいだ、和太郎さんの車の輪が、あぜ道の上に立てる「からから」という音を聞いていたものでした。
それがその日は、すぐに聞こえなくなってしまいました。
変だとは思いましたが、ばあさんはあまり気にも留めませんでした。
なにしろ、牛飼いと牛の両方が酔っ払っているのですから、どこへ行くのやら、何をするのやら、わかったもんじゃないからです。

五

和太郎さんの年老いたお母さんは、ぶいぶいと糸繰り車を回しては、片目で柱時計を見上げてばかりで、夜遅くまで待っていました。そのうちに、年をとってすすけた柱時計が、まるでぜんそく持ちのおじいさんのようにしばらく「ぜいぜい」とのどを鳴らしていました。そして、長い時間をかけて、十一時を告げました。

いつもなら十一時を打つころには、外から必ず車の音が聞こえてくるものでした。
「今夜はどうしたことだろう」
おかあさんはそう思いました。
十分が過ぎました。まだ車の音が聞こえてきません。
おかあさんは心配になって、ひざから綿くずをはらい落とすと、門口(かどぐち)に出てみました。
よい月夜で、寝静まった家々の屋根の瓦が、しっとりとぬれて光っています。道はほの白く浮かび上がり、ずっと先まで見渡せました。
けれど、その道のどこにも、和太郎さんの車のかげはありませんでした。

和太郎さんが夜、家に帰らなかったことといえば、今まで数えるほどしかありませんでした。おかあさんは、どんなときに和太郎さんがよそで泊まったか、ちゃんと覚えていました。
和太郎さんが小学生のころ、学校から伊勢参宮へ行って二晩。それから、若い衆だったころに村の仲間と吉野山へ行って五晩。そして同じく若い衆だったころ、毎年村のお祭りの夜、山車の夜番をしに行ったときです。
それ以外に、和太郎さんが家を空けてよそで泊まったことは、一度もありませんでした。
だから、おかあさんはだんだん心配になってきたのです。

十一時を過ぎて二十分。まだ和太郎さんは帰ってきません。
おかあさんはついに決心して、駐在所のおまわりさんのところへ相談に行きました。

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