お母さん、旦那様のご厚意だから頂いておきなさい」
母親「面目次第もございません」
と言いながら、親子は夫婦を見送って何度も頭を下げました。塩原たちも急ぎの旅ゆえ、その場を後にしました。
親子は上総戸(かずさど)のところまで塩原夫婦を見送ると、雨戸を閉めました。そして顔を見合わせると、先ほどまで「目の病気だ」と言っていた母親が、目をパッチリと開けて息子に向かって言いました。
母親「間抜けめ! まったくドジを踏むんじゃないよ!」
悪者「ええ、全く完全にやり損なってしまったよ」
母親「足が不自由になってしまって、この先どうやって稼ぐつもりだい!」
悪者「この小柄(こづか)が、とにかく痛くてたまらない。お母さん、あいつは今夜、大宮の栗原という宿屋に泊まると言っていたから、夜になってから後を追って行って、意趣返しに仕事をしてくるからな」
母親「やめておきなさいよ。お前のすることはいつもドジばかりでどうしようもない。また失敗するといけないから、やめておきなさい」
と親子で言い争っているところへ、ガラリと戸が開きました。やって来たのは継立の仁助という「胡麻の灰(旅人をだます盗人)」でした。
仁助「お母さん、とにかくここにはいられないぜ。あの子をさらってきたことから運が尽きたんだ。百々村の倉八、金山の松、江田村の源蔵が捕まって、俺たちのところにも足がついてきた。すぐに逃げ出さなくちゃいけないぜ」
母親「ほら見なさい! 足を怪我してどうするんだい。ここに薬があるから塗りな!」
仁助「どうしたんだ、小平の兄貴! なあ、一体どうした?」
小平(悪者)「いや、つまらない仕事をしくじっちまってな」
母親「この野郎が失敗して足に小柄を刺されて、痛くて逃げられやしない。本当に半端な野郎でどうしようもないよ」
小平「その代わりさ、これからこの小柄を持って行って、足を痛められただけの仕返しをしてやらなきゃ気が済まない」
そう言っているところへ、ガラリと戸が開き、塩原が息を切らして戻ってきました。
塩原「今、小柄を忘れていったから返してくれ」
そう言われたので、先ほどまで目を開けていた母親は慌てて目を閉じ、小平もまごまごしながら言いました。
小平「へい、小柄ならここにあります」
差し出されたものを受け取ると、塩原は脇差に収め、
塩原「考えてみれば、誠に気の毒なことをしたな」
と言い残して、急いで帰っていきました。
母親「これだよ! やることなすこと全部ドジじゃないか。あの侍の金を取ろうとして足に小柄を刺され、取りに来れば『はい』と言って渡すなんて、どうしようもないねえ。このドジさ加減といったら!」
仁助「そうさ。小平の兄貴、失敗ばかりしちゃいけねえぜ。とにかくここには長くはいられないから、これから信州へ向かうために、秩父へまっすぐ山越えして逃げよう」
と悪者三人組は相談し、さらってきた「おえい」を背負ってその場から逃亡しました。しかし、悪事というものはそう簡単に逃げ切れるものではなく、再び追手に追われることになるというお話です。
一方、塩原角右衛門夫婦はその夜、大宮宿の栗原という旅籠屋に泊まり、翌七日に江戸へ到着しました。本郷春木町へ向かい、岸田宇之助の家を訪ねて妹の「おかめ」に会いました。そこで右内が変死したこと、その後に沼田の百姓・角右衛門から五十両を受け取り、身支度をして江戸へ戻ったことを知らせようとしました。しかし近所の人に聞くと、「おかめは宇之助さんが帰ってこないので世帯を畳んで、今月の三日に子供を連れて旅立った」とのこと。塩原夫婦は残念に思いましたが、戻らないものは仕方ありません。
すぐに筋違橋内の戸田能登守の家来である野沢源作を頼りました。妻のお清が源作の従妹にあたるため、これを頼りに戸田侯へ奉公の手続きを済ませました。塩原は新地五十石で馬廻り組に召し抱えられました。
しかし翌寛延二年の四月、主君は野州宇都宮から肥前の島原へ国替えを命じられました。塩原も戸田侯の供をして国詰の身となったため、沼田の下新田の角右衛門宅へは便りが途絶えてしまいました。
しかし、再び実子の多助と巡り会うというお話は、ここで一息ついてからお話しすることにいたします。
(続く)これは文化・文政の頃まで大評判だったお話です。本所相生町に住み、二十四カ所もの土地を持ち、炭や薪を扱う大問屋として有名になった方がいらっしゃいました。わずかな期間で財を成し、これほどの大金持ちになったと言われております。
その頃はまだ世の中が今ほど発達していませんでしたが、現在は少しずつ開けてまいりまして、幸いなことに「大火事」というものが滅多に起こらなくなりました。これは家屋が石造りや蔵造り、あるいはレンガ造りになったためで、万が一火が出ても燃え広がる道がふさがれているので、昔のような大火事にはならないのです。しかし、未発達な昔は折々に大火事がありました。丑年の火事、午年の火事、あるいは佐久間町の三味線屋火事など、いろいろな大火事がありました。
その中でも一番大きなものは、本郷丸山の本妙寺火事や、目黒の行人坂の火事です。これは皆様もよくご存じのことでしょう。それに、赤坂の今井谷から出火して、麻布十番から古川、雑色、綱坂まで焼き払い、三田寺町、聖坂から三田の角へかけて田町へ出て、品川でようやく鎮火したという大きな火事もございました。これが宝暦十年二月四日の夜に出火し、一日おいて六日にもまた火が出ました。今度は神田旅籠町から佐久間町をすっかり焼き払い、ついには浅草茅町二丁目まで延焼しました。見附を越えて両国へ火が飛び、両国一面が火の海となり、馬喰町を焼き、横山町三丁目も残らず、本町通りを通って日本橋通りから江戸橋の方へ燃え広がり、四日市、小網町まで一面の火となりました。最後には深川へも火が飛び、深川全体が火の海となって、ようやく鎮火したのです。
するとその翌晩、また芝の神明前から出火し、芝片門前や本芝を残らず焼き払って、お浜でようやく鎮火しました。たった二日の間に江戸の大半を焼き尽くしたのですから、これは開けていなかった昔のお話。今ではこのようなことはございません。
田舎のお話も、この当時のことをお話しすると、まるで嘘のように聞こえるかもしれません。沼田の下新田などと言えば、ひどい山国の片田舎のように思えますが、今では沼田から前橋まで人力車で行くことができ、前橋から汽車に乗れば「ピー」と鳴らして上野まであっという間です。一日のうちに東京から往復ができるほど、少しずつ開けてまいりました。これからは鉄道が日本国中に蜘蛛の巣のように張り巡らされるそうですが、どれほど便利になるか計り知れません。
しかし、当時はちょっと旅に出るにも大変な覚悟が必要でした。田舎の人が江戸見物に出るにも、泣く泣く出かけたものです。江戸っ子が上方へ見物に行くのも実に億劫なことだと考え、「留守中に何があるか分からない。これが一生の別れになるかもしれない」と言って、水盃を交わしたりしました。
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