よくも私に恥をかかせてくれたわね。ふん、葉ちゃんが来たからって、そんなに慌てて私を突き飛ばさなくてもいいじゃない。そんなに私のことが嫌いなら、どうして嫌いなふりをしてくれないのよ」
「私は、あなたが不自由でかわいそうだと思ったからこそ、こうして来てあげているのに。調子に乗っちゃって……。ふんだ、葉子じゃないけど、私の方こそお断りよ。まったく……」
「そんな化物みたいな顔をして『由っちゃん』なんて呼ぶの、おかしいわよ。やめてよ。もう『由っちゃん』なんて、呼んでほしくないわ」
「……私はバカだったわね。なまじっかの同情をしたせいで、こんな男にいいようにされて、嫌われて……。ふふふふ、面白いわねえ。大バカ者の由子だわ……」
噛みつくように怒鳴っていた由っちゃんも、最後には鼻声になり、こみ上げてくる涙を袖で押さえながら、部屋を出て行ってしまいました。
黒吉には、もうそれを止める元気もありませんでした。
なぜだか、止めどなくあふれる涙を拭う気力さえわきませんでした。
一瞬のうちに、葉ちゃんと由っちゃんの二人を失ってしまった自分。
それは大きな嵐が過ぎ去ったあとのように、妙に信じられないような気持ちでした。それでいて、まだどこかに不気味なものが残っているような……。こうしている今でも、葉ちゃんと由っちゃんが「こんにちは」と笑いながら入ってきそうな、変な気持ちでした。
けれど、それはあまりにも残酷な一瞬でした。
あんなにも恋い焦がれていた葉ちゃん、あんなにも自分をいたわってくれていた由っちゃん。それが、ほんのちょっとした手違いから、もう遠くへ離れてしまったのです。
由っちゃんには申し訳ない話ですが、それに、よく考えると妙なことなのですが、黒吉が本当に恋し、本当に心を満たしてくれていたのは、由っちゃんではなく、やっぱり葉ちゃんだったのでした。
黒吉は、由っちゃんを抱きしめながら、いつも葉ちゃんのことを思い出し、彼女を葉ちゃんだと思って可愛がっていたのです。
言ってみれば、由っちゃんの体は、黒吉にとって「葉ちゃんの幻」でした。温かくて現実的な、葉ちゃんの身代わりの絵にすぎなかったのです。
黒吉は、由っちゃんを精一杯抱きながら、葉ちゃんの香りに酔いしれていました。
なんという異常な恋愛でしょう。なんという激しい葉ちゃんへの思いでしょう。
あのサーカス団での嵐の夜、十歳の時に交わした最初のキス。
黒吉には、その身代わりだった由っちゃんのことは忘れても、葉ちゃんのことを忘れることはできなかったのです。
「葉ちゃん……」
黒吉は、こぼれ落ちる涙の中で、何度も何度もその名を呼び続けました。
十一
それからの黒吉は、研究所の人たちに笑われ、肝心の葉ちゃんにすらバカにされながらも、わずかな暇を見つけては、不自由な足を引きずって、あの「千鳥」という居酒屋へ通い詰めるのでした。あのサーカス団がバラバラになった頃には、もう飽きっぽい葉ちゃんから完全に見捨てられていた黒吉。顔のキズがひどくなって、もっとおそろしい見た目になってしまった今では、もう一度彼女に好きになってもらうなんて、とても無理な相談でした。
(一度は、とにかく、家まで来てくれたんだから……)
黒吉は心の中でそう思っていたのでしょう。でも、葉ちゃんにしてみれば、移り気な女の子によくあることで、なんとなく、深い意味もなく寄ってみただけだったのです。それなのに、サーカス時代のライバルだった由っちゃんと仲良さそうにしているところを、わざと見せつけられたような気がして、
「ふん……」
と、ますます嫌いになってしまいました。この貧しくて見た目のこわい少年に、笑顔一つ見せてあげる義理なんて、彼女にはなかったのです。
葉ちゃんは、そんな相手をしていられないほど美しくて、みんなからチヤホヤされすぎていました。
また、お金をたくさん持っているエリートの人たちや、どこからか聞きつけてやってくるお金持ちの息子たちに囲まれて忙しくしていました。それとは反対に、自分の昔のことを知りすぎている黒吉のことは、邪魔だとは思うことがあっても、優しくしてあげる理由なんてどこにもなかったのでした。
葉ちゃんに冷たくされればされるほど、黒吉の恋する気持ちは、ますます燃え上がるばかりでした。
葉ちゃんは、しつこく通ってくる黒吉の前で、わざと他の男の人のヒザに乗ってみせたりしました。
けれど、黒吉はただ黙って、寂しそうに顔をゆがめて笑うだけでした。
心の中は、かきむしられるように痛くて悲しかったけれど、見た目はただニヤニヤと笑う、恋に弱い黒吉だったのでした。
葉ちゃんは、そんな反応のない黒吉に、かえってムキになって、自分に夢中になっている男たちの群れの中に、無理にでも飛び込んでいくのでした……。それは、どう考えてもこのまま長くは続きそうにない、不気味な予感が漂っていました。
×
しかし、ひとたび彼が飛行機に乗って、大空から飛び降りる、その瞬間のまぼろしの中では、黒吉は、思う存分、葉ちゃんを可愛がることができたのです。
「葉ちゃん、東京に行ったって聞いた時は、すごく寂しかったよ」
「そう、ごめんなさいね……」
「いいんだよ。今はこうして一緒にいられるから、とっても嬉しいんだ」
「そうね、私もよ……黒ちゃんに会いたくて、ここへ来たみたい」
「うん、そうなら嬉しいんだけど……」
「でも……でも、由っちゃんに悪いわ」
「何言ってるんだい、あんなやつ――なんでもないんだよ、本当に。ただ遊びに来るだけなんだ」
「あら、そう。本当ならいいけど……」
「本当だよ――」
「あっ、危ない!」
黒吉が、葉ちゃんの方へ手をのばした瞬間、ものすごい音がしてパラシュートが開きます。すると、その楽しいまぼろしは跡形もなく消え去って、黒吉は空っぽの空を、木の葉のようにヒラヒラと流れ落ちていくのでした……。
それは、悲しい現実でした。
でも、黒吉はその「夢」がいつか本当になると信じていました。
「いつかは、きっとそうなる――」
と……。
そして、相変わらず夜は居酒屋「千鳥」のすみっこで、のけもののようにポツンと座ったまま、なめるように葉ちゃんの全身を見つめ、昼は大空の夢の中で、葉ちゃんをしっかりと抱きしめるのでした。
十一ノ二
この頃の黒吉は、あのおそろしい空の冒険に、自分から進んで一日に二度も三度も挑戦するのでした。
そして飛行がない日は、すっかり元気をなくしたように、研究所のすみっこで松葉杖を抱えたまま、しょんぼりと考え込んでいました。
――それは、空を飛び降りる時の、妖しいまぼろしだけに楽しみを見出している、寂しい男の姿でした。
しかし、たった一つ残された「夢」というオアシスにも、ついに恐ろしい終わりがやってきました。
それは、まだ葉ちゃんの誤解も解けず、仲良くおしゃべりすることも叶わないうちに、突然のことでした。この町から少し離れたところに住む、お金持ちの化粧品屋さんの息子と、あの葉ちゃんが、近いうちに結婚することになった――という、黒吉にとっては、いきなり深い谷底へ突き落とされるような、いまわしいまぼろしだったのでした。
黒吉は、この悪い夢を見た瞬間から、すっかり心のバランスを失ってしまいました。
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