初級翻訳・夢鬼 第19話

夢鬼

あなたに言うのは、かえって残酷(ざんこく)かもしれないけれど、あの曲芸はタイミングが命でしょう? ブランコと自分の動きがピッタリ合わなきゃ、すごく危ないわよ」
「それは、わかっているけど……」
「それがね、片足になっちゃったら、そのタイミングが全然ちがっちゃうじゃない。片足でふるのと、両足でいきおいをつけるのとじゃ、まるで別ものよ……。たぶん、前の半分も飛べないわ」
「ううっ……」
(そうだ、その通りだ……)
 黒吉はガッカリして、考えこんでしまいました。
(ぼくには、もうあの曲芸はできないのか)
(もう、空を飛ぶことはできないのか……)
「由っちゃん、何かいい方法はないかな。何でもいい、何でもいいんだ。ぼくはこの体を、思いきり空に投げ出してみたいんだ! ねえ、いっそのこと、高い山から飛び降りてやろうか!」
 黒吉はくやしくて、歯をぎりっと鳴らしました。
「これこれ、君」
 そこへ、あの年老いたお医者さんが見回りにやってきました。
「そんなに興奮(こうふん)しちゃいかんよ。どうしたんだい?」
「ああ、先生! 先生、空を飛ぶ仕事はないでしょうか。思いきり飛べて、足がなくてもできるような仕事は!」
 お医者さんは、その急な質問に、しばらくポカンとしていました。包帯のすきまから左目だけをギラギラさせている黒吉を、じっと見つめていましたが……。
「じゃあ君、飛行機はどうだい? ……といっても、君には操縦(そうじゅう)はできないだろうしね。……あ、そうだ、いいことがあるよ。この町から汽車で三つ先の町に『柏木(かしわぎ)航空研究所』っていうのがあってね。時々、飛行機の音が聞こえるだろう? あそこで『パラシューター』を募集しているらしいよ。それならどうだい?」
「パラシューター?……」
「知らないのかい? ほら、飛行機から落下傘(パラシュート)で飛び降りる人のことだよ」
「あっ! あれか! あれは最高だ……。でも先生、もう定員がいっぱいじゃないでしょうか」
「いやいや、なかなか人は集まらないよ。何しろ命がけの仕事だからね。あそこでは新しいパラシュートの研究をしていて、それを実際に試してくれる人を募集しているんだ。なんでも一回飛び降りるだけで、十円もらえるそうだよ」
「十円! 十円もくれるんですか!」
 黒吉も、そばにいた由子ちゃんも、思わず目を見開きました。そのころの十円札なんて、めったに見ることのできない大金だったのです。
「十円でも安いくらいだよ。もしパラシュートが開かなかったら、それでおしまいなんだから……。さあ、手当てをしよう」
 先生はそう言うと、看護師さんと一緒に包帯をほどき始めました。
 けれど、黒吉は傷の痛みなんて少しも感じませんでした。それよりも、青い空を切り裂き、銀色のつばさをキラリと光らせて、雲の山をこえていく飛行機のカッコいい姿――。そして、その飛行機からひらりと飛び降りる、自分自身の勇ましい姿を想像して、夢中になっていました。
「パラシューター」
「パラシューター」
 黒吉は、今聞いたばかりのその言葉を、まるでおまじないのように何度も何度もつぶやき続けました。
 また、あの「昼間に見る不思議な夢」が見られるかもしれない。
 今度は、どんな幻(まぼろし)が見えるだろう……。
(もしかしたら、夢の中で葉ちゃんとぼくが……)
 胸のドキドキが止まりません。不思議な夢の力に、黒吉は目がくらむほど興奮していました。
 由子ちゃんは由子ちゃんで、
(お金をたくさん稼げるようになった黒吉さん)
 を想像して、ドキドキと胸を高鳴らせていました。

九

 それから一ヶ月もたたないころ。
 見た目がみにくくて、しかも片足がない、不気味な小男が「柏木航空研究所」の受付にやってきました。
 言うまでもなく、それは鴉(からす)黒吉でした。
 受付の男は、この怪物のような男が「パラシュートをやりたい」と言うのを聞いて、笑い出すのを通り越して、あきれ果ててしまいました。
「君が? 冗談じゃないよ。パラシューターがどんな仕事か知っているのかい? ふっふっふ……君がパラシューターになれるんだったら、百年も前にこの俺がなってるよ」
 でも、黒吉はそのバカにされた笑いをこらえました。しつこく食い下がって、なんとか所長さんに会わせてもらえるまで、黒吉は何度も何度もくやし涙を流したのでした。研究所の所長さんも、黒吉の姿をひと目見るなり、
「君かい? パラシュートで飛び降りたいっていうのは……」
と、あきれてポカンとしてしまいました。

「ぼくです! お願いします、どうしてもやらせてください!」

「だめだよ。元気なふつうの人だってすごく難しい仕事なのに、君は片足がないじゃないか」

「でも、パラシュートで降りるのに、足は関係ないでしょう! ぼくは前、空中ブランコの曲芸師だったんです。どんなに難しい技だってやってのけたんです。飛行機から飛び降りるくらい、へっちゃらです……! お願いします、どうしてもお願いします! ぼくには、もうこれしか生きる道がないんです……」

 黒吉は、受付のときと同じように、のどがカラカラに乾いてしまうほど、一生懸命にお願いし続けました。
 大ケガをして体が不自由になった黒吉が、目に涙をいっぱいためて必死に頼み込む姿は、かわいそうというより、見ているこちらが圧倒されるほどのものすごさでした。

「お願いします! もし失敗して死んでしまっても、自分のせいですから。できるかどうか、一度試させてだけでもください……どうしても、お願いします!」

 どうしても首をタテに振らなかった所長さんも、最後には黒吉の熱意に負けてしまいました。
「しかたないな、君……。よし、それなら、どうなってもいいという覚悟があるなら、一度だけやってみなさい」
と、吐き捨てるように言って、口をへの字に結びました。

 そのときの黒吉の喜びようといったら! 言葉ではとても言い表せないほどでした。
 傷だらけの顔いっぱいにうれしそうな笑顔を浮かべ、松葉杖をぶんぶん振り回しながら、部屋の中をコツン、コツンと歩き回りました。そして最後には、うおーっ!と、うなり声のような叫び声を上げて大喜びしたのです。
 そして、心配そうに待っていてくれた由子ちゃんの姿を門の外に見つけると、黒吉はバッタのようにぴょんぴょん跳んで駆け寄り、まるで赤ちゃんのように由子ちゃんにしがみついて泣き出しました。そんなに涙が出るのかと思うほど、ボロボロと涙を流したのです。

 それから半月ほどが過ぎ、黒吉の体の傷もすっかりよくなりました。地面での練習も終わり、いよいよ初めて飛行機に乗ってみることになったのです。
 初めて乗った飛行機の中の気持ちよさは、もう、言葉にできないほど素晴らしいものでした!
 プロペラの爆音が、これまでの嫌な思い出をすべて吹き飛ばしてくれます。見上げる青い空はどこまでも広く、そこには彼の傷ついた顔を気にする人なんて、誰もいません。
 それだけでも最高にハッピーなのに、見てください! はるか遠くの下の方には、どっしりとした山が見えます。
 銀色のヘビのように、キラキラとくねくね曲がって流れる川。

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