初級翻訳・夢鬼 第25話

夢鬼

ただ、葉ちゃんの真っ白な足の裏だけが、霧(きり)の中にぼんやりと浮かぶ青白い月明かりに照らされて、まるで海の底に沈んだヒトデのように、力なく突き出て見えていました。
まわりには、彼女の着ていた服などが、激しい嵐のあとの花びらのようにバラバラに散らばり、そこには若い女の子の、なまぐさい血のにおいがどんよりと漂(ただよ)っているのでした。

十一の四

 次の日――。
秋の空は高く、うららかで、とても明るい日でした。
いつものように格納庫から滑走路(かっそうろ)へと引き出された飛行機は、黒吉を乗せると、昨日の夜、この原っぱで恐ろしい事件が起きたことなど知らないかのように、雲ひとつない青空へと、軽々と飛び込んでいきました。

ふと気がつくと、黒吉が座っている足元のすき間に、なにか大きな風呂敷(ふろしき)包みのようなものが、窮屈(きゅうくつ)そうに押し込まれていました。
「……こんなもの、いつの間に積み込まれたんだろう?」
だれも気づきませんでしたが、黒吉には不吉な予感がありました。
(これは、きっと……亡くなった葉ちゃんなんだ)

×

 あんなにまで愛し、あんなにまで大好きだった葉ちゃん。
その葉ちゃんから、あんなにひどくバカにされ、笑われるなんて、黒吉自身も思ってもみないことでした。
あまりのショックで頭が真っ白になった黒吉は、目の前がくらむと同時に、なかば夢中になって、葉ちゃんを死なせてしまったのです。
そして、冷たくなっていく彼女の美しい顔に、何度も何度も、熱いお別れのキスをしました。
そこで、黒吉はやっと自分を取り戻したのでした。

ふつうでは考えられないようなサーカス団の舞台裏。その派手な色使いや、にぎやかな笑い声、卑(いや)しい歌や、汗のにおいのする衣装(いしょう)に囲まれて育った黒吉。そこで、美しくて少し変わった女の子、葉ちゃんを知り、恋をしてきました。
命がけで空中ブランコを飛び移るような芸の中で、ふしぎな自己催眠(じこさいみん)を覚えてしまった黒吉。
そして、体が不自由になったことで、ますます考えが極端(きょくたん)になり、「葉ちゃんとの楽しい夢」ばかりを追いかけて、もう夢と現実の区別さえつかなくなっていた黒吉。
そんな彼にとって、この「殺人」という結末にたどり着くのは、むしろ当然のことだったのかもしれません。

けれど、葉ちゃんをあやめてしまった黒吉は、たとえようもない幸せな気分にひたっていました。
(葉ちゃん……あれほど追いかけていた葉ちゃんが、今は僕のものになったんだ)
葉ちゃんは、もう嫌そうな顔ひとつしません。
黒吉の醜(みにく)い顔をどれだけ近づけても、もう笑ったりしません。
いくらしっかり抱きしめても、雨や弾丸(だんがん)のような激しいキスをして、その花のようにかわいい顔がベトベトに濡(ぬ)れてしまっても……。
(なんて幸せなんだろう――)

ですが、黒吉はその幸せに、いつまでも酔(よ)っているわけにはいきませんでした。
はっと顔を上げてみると、長い秋の夜はすでに明けて、空が白々と明るくなり始めていました。
(だれかに見られたら……)
人に見られたら、もうおしまいです。
葉ちゃんと引き離(はな)されたあげく、自分は重い罰(ばつ)を受けて、どこかわけのわからないお墓の中に投げ込まれてしまうでしょう。
死ぬことは別に怖くありませんでした。
ただ、せっかく手に入れた葉ちゃんと離ればなれになることだけが、どうしても耐(た)えられなかったのです。

黒吉はさんざん考えた末、葉ちゃんを「空」に連れて行くことを思いつきました。
そう決心すると、葉ちゃんの遺体(いたい)を、長い時間をかけて格納庫まで引きずるようにして運んできました。
勝手知ったる出入り口からこっそり忍び込み、たった一台しかない古い練習機の、足元にある特別な空洞(くうどう)の中に、無理やり押し込んだのです。
あとは、何食わぬ顔をして、飛行機が飛び立つのを待っていました。

×

 飛行機は飛び立ちました。
幸い、だれも気づきませんでした。
黒吉と葉ちゃんの、「空の新婚旅行」が始まったのです。

横に取りつけられた高度計の針が、グングンと回っていきました。
はるか遠くの地面が、足の下でフラフラとのたうち回っているように見えます。
黒吉は、やがて思い出したように、足元の風呂敷包みをほどき始めました。
めくるようにして風呂敷を取り去ると、そこから現れたのは、あの若くて美しい葉ちゃんの、何も身につけていない、真っ裸の体でした。

もう魂(たましい)は消えてしまっていましたが、その青白くて整った美しい体は、飛行機の揺(ゆ)れを受けて、まるで生きているかのようにクネクネと震え、黒吉のひざの下で、おとなしくひざまずいているようでした。
「葉ちゃん――僕の、僕だけの葉ちゃん……!」
精いっぱい叫(さけ)んだ声は、むなしく空へと消えていきました。
でも、黒吉は幸せでした。

彼は飛行帽の中で、厚い唇(くちびる)をペロペロとなめると、とてもうれしそうに、醜い顔をニタニタとゆがめながら、飽(あ)きることなく葉ちゃんの姿を見つめ続けるのでした。

十一の五

 どこまでも透(と)き通った、吸い込まれるような青空の中で、黒吉は葉ちゃんをしっかりと抱いたまま飛んでいました。
「おーい、用意しろ……!」
突然、伝声管(でんせいかん)を通して、操縦士の太い声が聞こえてきました。ハッとした黒吉は、座席から身を乗り出してずっと下の地面を見下ろしました。すると、まるでおもちゃの箱庭のような景色が、まるで葉ちゃんの体を今か今かと待ち構えているかのように、両手を広げてゆらゆらと踊っているように見えました。

――黒吉は、もう頭がおかしくなってしまったのでしょうか。
彼は突然、パラシュートを外すと、飛行帽をかなぐり捨て、飛行服までむしり取るように脱ぎ捨てました。そして、乱暴に、でも力強く、葉ちゃんの亡骸を抱き上げたのです。それと同時に……。
「あっ――」と思った瞬間、銀色に光る機体から、ぎゅっと抱き合ったままの裸の二人が、はるか下の遠い遠い地球に向かって、まるで爆弾のようなものすごい勢いで、どこまでもどこまでも、真っ逆さまに落ちていきました……。

×

黒吉は、とても満足していました。
今まで毎日見慣れてきた山や川、森や畑が、自分たち二人だけを優しく抱きしめてくれるように思えたのです。
それに、なんという神様からの祝福でしょうか。空気を切り裂いて真っ逆さまに落ちていく自分の両腕には、たとえ地獄まで行ったとしても絶対に離さないぞという強い力で、葉ちゃんを力いっぱい抱きしめているではありませんか――。
黒吉が空を飛ぶ時にいつも見ていた、あの不思議な夢が、今や現実よりもはっきりとした形になって現れたのです……。

「黒ちゃん、許してね。やっぱり私は……、もうすっかりあなたのものよ」
「わかってくれたんだね、葉ちゃん。僕の気持ち、やっとわかってくれたんだね」
「わかったわ、わかったわ。もう絶対に、あなたのそばを離れないわ」
「ありがとう、葉ちゃん。ありがとう。僕も、僕も、もう絶対に君を離さないよ……」

ああ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました