「さあ、それじゃあそろそろ帰ろうか、健。克ちゃんが待っているからね」
いつの間にかすっかりおとなしい元の顔に戻っていた健は、お母さんの言葉が終わるか終わらないかのうちに、パッと元気に立ち上がりました。そして中の間をスーッと通り抜けて、納戸から自分の風呂敷包みを持って戻ってきたので、みんな思わず声をあげて笑い出しました。
「おいおい健ちゃん、また遊びに来いよ!」
「ん!」
「夜道だから、気をつけて帰るんだよ」
みんな口々に温かい別れの言葉をかけ合いました。
あの鳥の羽がついたおそろいの帽子をかぶった太郎くんが、同じく鳥の羽の帽子をかぶった健に向かって、ちょっぴりさびしそうな顔で言いました。
「健ちゃんよ、また浜辺で一緒に遊ぼうな!」
「ん!」
健は大きく力強くうなずいたかと思うと、急に「失敬!」と言ってピシッと直立不動の敬礼ポーズをとったので、部屋中みんな大笑いになりました。
外はすでに、薄ねずみ色の夕暮れに包まれていました。
家の門を出たところで、お母さんは何か言い忘れたことがあるような気がしたのか、一度閉めかけた戸に手をかけたまま、しばらくじっと考えていました。でも、やっぱりいいかと気を取り直したように、何か口の中でブツブツとつぶやきながら歩き出しました。
海沿いの道を、健はお母さんの手をしっかり引っ張りながら歩いていきました。
「お母さんの手、ぬっくぬくだなあ!」
健の元気な声が、お母さんの腰のあたりから聞こえてきました。
お母さんはだまって健の前にしゃがみ込むと、背中を向け、うしろへ両手を広げました。
健は待っていましたとばかりにとびついていき、お母さんの首をぎゅっと抱きしめました。
そして、「へへっ、へへっ」と嬉しそうに笑いました。
ほのかな明かりがポツリポツリと漏れてくる家々もやがて途切れ、あたりが暗くなってきたころ、お母さんは背中の健に首をねじらせて顔を近づけました。
「健ね、克ちゃんがだな、きれいな赤いベベ(着物)を着せてやったら、すっごく喜ぶんだよ……。その可愛いベベを見てな……」
「ふーん」
「それでね、おいしいお菓子を見せてやると、小さなお手々を出して一生懸命とりにくるんだよ」
「ふーん」
ペタン、ペタンと、静かな渚の波を洗う音が聞こえてきます。
夕闇はだんだんと、まわりの村全体を優しく包み込んでいきました。
「健ね、克ちゃんがだな、お母さんの顔をじっと見たら、ニコッと笑うんだよ」
「ほうよ!」
「それからな、『克ちゃん、こっちへおいでー』って言うと、小さなお手々をパタパタさせてとんでくるんだよ」
いつの間にか遠く村のほうも通り過ぎて、あたりはすっかりひっそりと静まり返り、お母さんの下駄の音だけがカチカチと夜の闇に響いていました。
むせるような若い草木の葉っぱの匂いがあたり一面に立ち込め、暗い畑のあちこちに、大根の白い花がぼんやりと白く浮かび上がっていました。
「それにね健、お母さんがお茶碗からこぼしちゃったご飯粒をね、克ちゃんが見つけてな、小さなお手々でつまんで、きれいに拾って食べるんだよ……」「おもしろいな。」
「ん。」
「おめめのところにお母さんが手を持っていったらなさ、怖そうにして、おめめをつぶるんだよ。おもしろいな。」
「ん。」
「今度もう一回行ってきたら、克ちゃんはもっといろんなものが見えるようになるんだよ。」
暗い海の上では、ゆっくりと進む漁船のいさり火が右に左に揺れていて、久しぶりに見上げる空には、まるで秋の夜のように星がキラキラと輝いていました。
「まあ、きれいな星ね、見てごらん、健!」
お母さんは立ち止まって、背中の健をゆっさゆっさと揺り上げました。
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