これほど弱り、まわりの人たちからいたわられている彼女が、ふたたび教職に戻ることができたのは、陰で早苗(さなえ)が一生懸命尽力してくれたおかげだった。
早苗はいま、岬の本村(ほんむら)にある母校にいた。
「四十になるんだぞ。
現役の先生でいても、年をとってそろそろ辞めてもらうような年齢じゃないか」
と首をかしげる校長先生に、早苗が何度も何度も頼み込み、ようやく「岬の学校ならば」ということで話がまとまったのだ。
しかもそれは、大石先生がもっている正式な教員としての資格によるものではなく、校長先生のひと存じで採用できる「助教(じょきょう)」という立場だった。
つまり、臨時の先生なのだ。
ほかに代わりの人が見つかれば、いつ辞めさせられるか分からない不安定な立場だった。
早苗は、申し訳なさにすっかりしおれながらそのことを報告した。
しかし、大石先生の目は異様なほど力強くかがやいたのである。
「岬なら、願ったりかなったりよ!
昔の借りもあることだしね」
条件の悪さなど気にもかけず、心の底からぐっと突き上げてくるような、まぶしい笑顔を見せた。
そのとき大石先生の心には、ずっと忘れていた古い記憶が、いままさにぱっとひらく花のように、新鮮なよろこびとなってよみがえっていたのだ。
――せんせえ またおいでェ……
足がなおったら またおいでェ……
やくそく したぞォ……
あのとき、自分のあとへ赴任していってきた年老いた後藤先生と同じように、自分もまたまわりの人たちから哀れみを受けているとも知らず――いや、大石先生がそれに気づかないはずはなかった。
しかし、幼い二人の子どもをかかえた未亡人の彼女もまた、後藤先生と同じように、よろこんで岬へ行かなければならなかったのだ。
それでも彼女は今、目の前に近づいてくる岬の村の山々が、夜の冷気に洗われて緑色のつややかさを放っているのを見ると、自分自身もまた若いころに戻っていくような不思議な気がしていた。
昔は洋服や自転車で人の先頭に立っていた彼女も、今では白髪のまじった髪の毛を無造作にひっつめ、亡くなった夫の着物の紺がすりで作ったモンペをはき、小さな息子が漕ぐ舟に揺られて送られている。
昔のおもかげを無理やり探すとすれば、急にかがやきだした瞳の色と、若々しい声くらいしかなかったかもしれない。
「生意気だ」と言われてみんなにけなされた彼女の洋服や自転車は、それをきっかけにかえって村中で大流行するようになり、いまでは村に自転車に乗れない女の人はいないほどだった。
だが、二十年近い歳月は、もうだれの記憶からも若い日の彼女の姿を消し去ってしまっていた。
陸地がすうっとすべるように近づいたと思うと、舟はもう波打ち際にまで寄っていた。
まだ舟の扱いに慣れない手つきで水棹(みさお)を押す大吉と、見慣れない大石先生の姿に、昔どおり村の子どもたちがぞろぞろと集まってきた。
しかし、そのどの顔を見ても、おぼえている子は一人もいなかった。
長年のあいだ続く衣料品の不足は、質素な岬の子どもたちの姿にいっそう哀れな形で表れており、まるでワカメのようにビリビリに裂けたパンツをはき、そのすきまから肌がむき出しになっている男の子もいた。
こちらが笑いかけるとおびえたような目をしたり、何の感情も浮かばないような表情のまま、深い関心を示すこともなく道を開けてくれた。
珍しそうにじろじろと見つめてくる様子だけは、昔のままであった。
そんな好奇の目に取り囲まれながら、大石先生ははずみをつけて舟から飛び下りた。
足元の石ころ一つにさえ昔のおもかげが残っているような、言いようのないなつかしさがこみ上げてくる。
少し舟に酔ったのか、頭がふらふらとめまいがした。
ゆっくりと歩いていると、後ろから小さなささやき声が聞こえてきた。
「たいがい、せんせど、あれ」
「ほんな、おじぎしてみるか、そしたらわかる」
思わず顔をほころばせた大石先生の前へ、ばたばたと三、四人の小さな子どもたちが立ちふさがり、ぴょこんと頭を下げた。
新学期が近づいて、新入生たちのあいだにおじぎの挨拶が取り入れられたのをきっかけに、まだ学校には通っていないらしい小さな子どもたちまでが、その真似をしているのであろう。
大石先生は会釈を返しながら、思わず涙ぐんでいた。
まず何よりも、幼い子どもたちに歓迎されたような気がして、たまらなくうれしかったのだ。
そっと目の端を押さえ、優しい笑顔を作った。
改めてじっと見てみたが、すぐに思いだせるような顔の子は一人もいなかった。
道を行き交う人たちも同じだった。
昔ながらの村の道で出会う人たちは、なんとみんな変わってしまった姿なのだろう。
とはいえ、そのなかでもっとも変わってしまったのが自分自身だとは、彼女はまだ気づいていなかった。
そんな大石先生を追い抜いてはまた追い抜き、三々五々と走っていく生徒たちの姿も絶えなかった。
ちらりちらりとこちらの様子を盗み見しては、ぱっと走り去っていく。
大石先生は、子どもたちのその姿からわざと目をそらした。見られたくない熱いものが、目に光ってこぼれ落ちそうだったからだ。
ひとりで家に帰っていく大吉の方へ手を振って見せてから、彼女は校門をくぐった。
すっかり古びてしまった校舎の、八割がた割れてしまったガラス窓を見たとき、一瞬、絶望的な気持ちが満ち潮のように押し寄せてきた。
しかし、昔のままの教室に入り、昔と同じように机と椅子を窓際に置いて外を眺めているうちに、不思議と背筋がしゃんとしてきた。
なぜなら、何もかもが古びたこの学校に、新しいものたちがやってきはじめていたからだ。
古い帯の芯だったような白い布で作られた新しいカバン。
まん中に一本の縫い目があるらしい銘仙(めいせん)の風呂敷。その中には、新聞紙をただ折りたたんだだけのような、表紙もない粗末な教科書が入っているだけでも、子どもたちはみな希望に燃える顔をしていたからだ。昔どおりの岬の子どもたちの表情である。
十八年という歳月を昨日のことのように思い、昨日につづく今日のような錯覚にさえとらわれた。
大げさな始業式もなく教室に入ると、さすがにかあっと顔に血がのぼるのを感じた。
それでも、なれた態度で出席をとった。
若く、はりのある声で、「名前をよばれたら、大きな声で『ハイ』とお返事をするのよ」と前おきをして、
「川崎覚さん」
「ハイ」
「加部芳男さん」
「ハーイ」
「元気ね。
みんな、はっきりとお返事ができそうですね。
加部芳男さんは、加部小ツルさんのごきょうだい?」
いま、お返事をほめたばかりなのに、もう加部芳男はだまってかぶりをふる。
名前をよばれたときでなければ、「ハイ」とはいえないもののように。
しかし先生は笑顔をくずさずに、
「岡田文吉さん」
それは明らかに磯吉の兄の子どもと察せられたが、目を負傷して除隊された磯吉につらい兄であると聞いて、そのことにはふれずに次へと移った。
「山本克彦さん」
「ハイ」
「森岡五郎さん」
「ハイ」
正(しょう)の顔が大きく浮かんで消えた。
「片桐マコトさん」
「ハイ」
「あなた、コトエさんのおうちの子?」
マコトはぽかんとしていた。
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