初級翻訳・天馬 第1話

天馬

一

 重苦しい雲が低い空にどんよりと垂れ込めたある日の朝、京城(けいじょう)の有名な盛り場である新町(しんまち)の裏小路にある娼家(しょうか)から、みすぼらしい格好をした小説家の玄竜(げんりゅう)が、ごみごみとした細い路地へと、まるで放り出されるようにして出てきた。
 彼はまるで疲れ果てたといった様子で、しばらく門の前にぼんと立ち尽くし、いったいここからどうやって本町(ほんまち)通りへ抜け出せばいいものかと考え込んでいたが、やがて思い切ったようにスタスタと前の小路へ入っていった。
 しかし、いかんせん周囲は複雑に入り組んだ盛り場である。地面を這うように立ち並ぶ家々が互いに肩をぶつけ合うような入り組んだ小路で、どこをどう通れば大通りに出られるのか、全く見当がつかない。
 右に折れたかと思えば今度は左の方へ入っていき、やっと左から抜け出たかと思うと、また路地が二つに分かれて行き止まりになってしまう、といった具合だった。
 何か深い物思いに沈みながら、彼はてくてく歩き続けたが、袋小路などに突き当たるたびにハッと気づいてあたりを見回した。
 前を見ても横を見ても、大きな門に赤や青のペンキがべったりと塗られ、どの土壁も今にも崩れ落ちそうな家ばかりが並んでいる。
 そうしてまた黙々と行ったり来たりしながら小路を縫うように歩いているうちに、彼はとうとう完全に道に迷ってしまったのだ。
 まだそんなに遅い時刻ではないのどの小路もひっそりとしていて、時々、朝帰りらしい客が気まずそうに肩をすぼめながらふらふらと通り過ぎていくばかりだ。
 どこへ行くのか道に迷った塩売りのおじいさんが、やけくそ気味に、
「塩やーい、塩やい!」
 と大声で叫びながら歩き回っていた。
 玄竜がようやく三差路になっているところまでたどり着くと、のろのろと「みどり」というたばこを一本取り出して口にくわえ、あたりをキョロキョロと見回しながら、不機嫌そうに何かをブツブツとつぶやいた。
 どうも気に行らない女を相手にしたものだと思っていたが、帰り道にまでこんなにてこずらされるとはな、と彼は愚痴をこぼすのだった。
 だが、それよりも何よりも、さっきから彼の心の片隅には、どうしても払い落とすことのできない黒い雲のようなわだかまりが居座っていた。
 その思いが、時々強く彼の胸を締め付けることさえあるのだった。
 実は彼は、どうしようもない事情から、この二日のうちに頭を丸めてお寺へ修行に行かなければならない身の上だった。
 だからこそ、「世の中の楽しみもこれでおしまいか」と思ったあまり、昨夜は興奮の余り、相手の女性の頬にかぶりつきながら「メロンだ、メロンだ!」と叫んでしまったのだが、女性のほうはこうした天衣無縫な芸術家を理解できるはずもなく、びっくり仰天して部屋から飛び出してしまったのだ。
 彼はそんな不快な出来事を思い出して、「ちくしょう、忌々(いまいま)しい」と再びブツブツつぶやきながら、とにかく一度でも小高いところに出て周りを見渡さなければ話にならないと思い直し、ゆるやかな坂になっている小路めがけて、またトボトボと歩きだした。
 やっぱりあちこちに突き当ったり、くねくねと曲がりくねったりしながら、ようやく坂の上の「陽春館(ようしゅんかん)」という、そこもまた青いペンキで塗られた大きな門の前へとたどり着いた。
 見渡す限り、何百、何千という朝鮮人の娼家の屋根が、坂に沿ってびっしりと密集しており、右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、まるで波のようにうねっている。
 生温かい初夏の風に吹かれながら、どこかの詩にあるような「我いま山上に立つ」といった格好でしばらくぼーっと立っていると、ひたひたと押し寄せてくるどうしようもない寂しさを、ごまかすことができなかった。
 男たちが右往左往し、娼女たちの甲高い声が威勢よく響き渡っていた昨夜の盛り場とはとても思えないほど、辺りは静まり返っている。
 だが、このぎっしりと詰まった家々のなかに何千人もの若い女たちがまるで洗った芋のようにおり重なっているというのに、自分はあと二日もすれば薄暗い妙光寺の中で寝起きしなければならないのだろうか。
 玄竜はそこで二本目のたばこを取り出して火をつけ、ふーっと煙を吹き出した。
 陽炎(かげろう)にぼんやりと霞んで遠くに見える西の空の彼方には、天主教会堂の高い鐘楼(しょうろう)がそびえ立ち、そのあたりには高いビル群がまるで氷山のように群れをなして建っている。
 それこそが、まさにこれから彼が向かおうとしている目的地だ。
 それにしても、さてここからどうやって下りていったものだろうかと頭をひねった瞬間、彼は思わずクスッと笑ってしまった。
 朝鮮家々の屋根を越えて南のふもとを眺めたとき、本町五丁目あたりに、黒い変圧器をいくつものせた変わった電信柱がふと目に留まったからだ。
 それはいつだったか、泌尿器科の病院を探して歩き回ったとき、そこに確か何かの広告がぶら下がっていたのを、急に思い出したからであるそうだ。
 そうだ、あれを目印にして下りていけばいい――と彼は自分に言い聞かせた。

――

 本町通りといえば、京城では一番栄えている日本人街であり、それが蛇のようにくねりながら東西に細長く続いている。
 ようやく盛り場の出口を見つけ出し、そこから本町五丁目に玄竜がのっそりと姿を現したときには、すでに時計は十時をすぎており、通りにはたくさんの人の姿があって、それなりに賑やかだった。
 彼は、小説家や役人など、誰か知り合いに会えないものかと思いながら、目を細め、少しうつむき加減で通りの真ん中をがに股で歩き出した。
 あるいは本人自身が言っているように、本当に柔道初段以上のために広すぎるほどの肩がしょんぼりと凹み込んでいるのかどうかは分からないが、彼のそのがに股歩きは、あの奇妙な電信柱を覚えるようになってからのことだった。
 とりわけ、救いようのないほどの孤独と深い憂鬱(ゆううつ)に囚(とら)われている今の彼なのだからなおさらだった。
 しかし、明治製菓のあたりに差し掛かるまで、結局一人の知り合いにも会うことができなかった。
 そのときふと、この明治製菓で開かれた昨夜の集まりのことが思い出された。「貴様こそ朝鮮文化の恐ろしいダニめ!」と叫んで皿を投げつけてきた、評論家・李明植(りめいしょく)の鋭い顔が、ふうっと目の前に浮かんで消えた。
彼は何か深いことを考えているような顔つきでそのお店の入り口の前に立ち止まると、「ふん、青臭い野郎め、今に留置所で……」と、不敵な薄笑いを浮かべた。
それから、「どれ、ちょっと中に入ってやるか」という気になったらしく、急に胸を張って肩を怒らせ、慌ただしくドアを押して店の中へ入っていった。
ホールの中はがらんとしており、隅っこの方に外交員風の男が二人だけ向かい合って、ひそひそとなにかを話し合っているだけだった。
玄竜はその真ん中あたりへとろろと歩いていき、どっかりと腰を下ろすと、給仕の女の子を手招きして呼び寄せ、しばらくじいっとその顔を見上げていた。しかし、女の子が気味悪そうに顔を赤らめるのを見るやいなや、突然大きな声で叫んだ。

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