「コーヒー!」
女の子はびっくりして、慌ててどこかへ飛んでいってしまった。
すると彼はすっかり満足したようにニヤッと笑いを浮かべ、お尻を持ち上げると、今度はどういうつもりか調理場の方へとまるで犬のように這うようにして入っていき、「おいや、すみませんね」と人懐っこそうな笑顔を崩しながら、手をぴょこんと差し出した。
「おしぼりを一つ……」
こんな風に馴れ馴れしく話しかけるところを見ると、調理人たちはとうに自分のことを知っているに違いないと思い込んでいるようだった。
実際、彼らは昨日の夜に二階で起きた大騒ぎの事件を知っていたので、玄竜の顔をちゃんと覚えていたのだ。
ちょうど昨夜は朝鮮の文人たちの集まりがあって、皆が何かを熱心に話し合っていたところだった。その部屋の片隅で、玄竜が突然ケラケラと笑い出したかと思うと、一人の若い男からいきなり皿を投げつけられ、頭を打って床に倒れてしまったのである。それでも彼は、仰向けにひっくり返ったまま、なおもふてくされたようにケラケラと笑い続けるのをやめなかったのだ。
その場でその若い男・李明植は、暴力事件の角(かど)で、席に居合わせた警察官に連れていかれてしまったのだった。
調理人たちは、あのときの玄竜のあまりのふてぶてしさにすっかり度肝を抜かれていたのだが、今度はこんな調理場という変な場所に彼がフラリと現れたものだから、いよいよ面食らって、わけが分からないといった様子でお互いの顔を見合わせた。
誰も笑う者はおらず、ただ一人の男が驚いたように首を振って、「おしぼりなんてないよ」という仕草をした。
すると彼は、急にだらしない横目で全員をキリッと睨みつけると、まるでネズミのように素早く水道の方へ駆け寄り、じゃあじゃあと勢いよく水を出しっぱなしにした。そして自分の頭を突き出して、ふうふうと水を浴びながら豪快に顔を洗い始めたのである。
見ている人たちは皆、開いた口が塞がらなかったが、彼が「へへへ……」と照れくそうに笑いながら店を出ていったあと、先ほどの男が「いったいあの人は狂い虫(気違い)なんだろうか?」と首をかしげたのだった。
「いや、玄竜だよ、小説家の玄竜だよ」
「そうだ、あれに違いねえ」
「あの小説家の玄竜だ!」
などと、みんなは口々にコソコソと囁き合いながら、食器の返却口のあたりに寄り集まって、外の様子を覗き込んだ。
見てみると、玄竜はもう自分の席に戻っていて、ちょうどすぐそばにあった朝刊を鷲づかみにすると、それで自分の濡れた顔や首筋をごしごしと拭いているところだった。
彼はチラッと流し目で、調理人たちが詰め寄って自分の方に熱い視線を注いでいるのを見つけると、すっかりいい気になって、真っ黒に濡れてしわくちゃになった新聞紙を、ポンと大御所風にテーブルの上に投げ出した。
そこで何気なくその新聞紙に目をやったとき、紙の一つの折り目のあたりを、大きな一匹の南京虫(トコジラミ)がのそのそと這い回っているのを見つけて、彼は思わず目を丸くした。
思わずニヤリと笑みを浮かべ、少し体を乗り出した。
その南京虫は、よっぽど血をごちそうになって吸いすぎたのだろうか、急に逃げ出そうとしてはいるものの、赤くパンパンに膨れ上がりすぎて足が思うように動かないらしく、自分の体を持て余している様子だった。
ときどきツルッと滑って転げ落ちそうになりながらも、人間の指先が近づいてくると、また慌てて逃げ出していくのだった。
もともと彼は南京虫という生き物が好きだった。
地面にぴったりとひっついて這い回るその姿が、なんだか自分自身の生き様にそっくりだと思っているからなのだろうか。
あるいは、その図太さや、どこかずる賢いところが気に入っているのかもしれなかった。
それにしても、こいつはさっきまで自分の首筋を這い回っていたやつに違いなく、さてはあの「メロン頬の女」の部屋で背負わされてしまった相棒だなと思うと、なぜか少しこそばゆいような、それでいて腹立たしいような気分になった。
彼は突然、肩をうねらせて「ひひひ」と笑った。
しかし、ふと気づいてよく見てみると、いつの間にか南京虫はすごすごと急ぎ足で、今度は新聞の折り目の裏側の方へ隠れようとしていた。
彼はすかさずその端っこを指先でつまみ上げると、そっとひっくり返し、いかにも面白そうに、その行く末をじーっと見守った。
ところが、それからわずか二、三分も経たないうちに、彼は突然目をカッと見開き、大げさにびっくり仰天した。
その南京虫は、ちょうどある一つの新聞の見出しの上を歩いているところで、その文字をまるで彼に一字一字読ませているかのように見えたのだ。
これは一体どういうことだろう。
瞬間、彼は「これは天の恵みともいうべき最高のチャンスだぞ!」と心の中で叫んだ。
まるでキリストの復活なみに奇跡的なことだとも感じた。
たとえそれは学芸欄の片隅にある小さな活字にすぎなかったが、彼とはそれこそ本当に並々ならぬ深い親交のある、東京文壇の作家・田中が、満洲へ行くついでに京城(けいじょう)に立ち寄り、朝鮮ホテルに泊まっているということが、そこにしっかりと書かれていたのである。
「行かなくちゃならない!」
玄竜はブルッと全身をふるわせて立ち上がると、一度だけ大げさに肩をすくめ、まるで一匹の南京虫のように素早く出口へと歩き出した。
彼の胸の中には、今や固い決意がみなぎっていたのである。ちょうどそのとき、コーヒーを運んできた女の子とぶつかりそうになりながら、彼は茶碗をひったくるように掴み上げると、熱いのも構わずにぐいぐいと飲み干し、呆然としている女の子や調理人たちをあとにして、あわただしく店から飛び出していった。
本町通りは、いくら午前中とはいえ、明菓のあたりから通りの出口の方にかけては、あふれんばかりの人波でいつもごった返している。
そそっかしく下駄を鳴らして歩く日本人たちや、口をポカンと開けて店先を眺める白衣を着た田舎からの見物客や、ショーウィンドウに飾られた目玉が動く人形にびっくりし合っているおばあさんたちや、買い物に出かける日本人婦人たち、ベルの音をけたたましく鳴らしながら駆け抜けていく自転車の配達小僧に、ほんの十銭ほどの運賃で荷物の奪い合いをする人力車夫たち――。
玄竜は、こうした人々の波をかきわけるようにして急ぎ足で通り抜け、朝鮮銀行前の広場に出ると、そこで足を止めた。
路面電車がひっきりなしに行き交い、自動車が群れをなしてロータリーを走り回っている。
彼はあわてふためきながら広場を横切り、反対側の静かな長谷川町の方へと入っていった。
しばらく歩いていくと、右側に高い昔風の塀が続き、歴史を感じさせる立派な大きな門が姿を現す。
そこをくぐり抜けて中に入ると、広々とした庭園の中に、かつて大韓帝国時代にどこかの国の公使館だったという立派な洋館が建っていた。
玄竜はそこまでほとんど夢中でたどり着くと、胸を高鳴らせながら回転扉を押し、吸い込まれるようにして中に入っていった。
「田中君にとりついでくれ」
彼は帳場の前に立つなり、精一杯の威厳を作って声を張り上げた。
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