初級翻訳・天馬 第9話

天馬

だが、かれこれ二時間あまりも歩き回ったのに一向に手がかりは掴めず、激しい疲労が押し寄せ、お腹が空いてたまらなくなってくるばかりだった。
とうとう優美館の裏あたりまでやって来ると、そこはかなり人通りも少なく寂しい場所だった。彼はもう一歩も足を運べないほどクタクタに疲れ果て、ひとまずその辺りにあるきたならしい立ち飲み屋へと潜り込んだのである。
ホコリっぽい明るい店内では、みすぼらしい格好の人々がそれぞれ二、三人ずつグループを作って寄り添い、ワイワイと騒ぎ立てながらお酒を酌み交わしていた。
玄竜は桃の枝を肩に担いだまま、店内の人々の驚きの視線を一身に浴びながら、店の奥へとでのっそり進み出た。
前の方には長い板で作られたカウンター(酒台)が据えつけられており、その向こう側には顔立ちの小綺麗な女がちょこなんと座っていた。
彼はカウンターの上に出されていた大きな盃を手に取ると、女から薄黄色っぽい薬酒を注いでもらうやいなや、一気にグイッと飲み干した。
それは、なんだか妙にすっぱい味がした。
彼は顔を上げて辺りをジロッと見回してみたが、知っている人は一人もいなかった。
ほかの客たちは、彼と視線がバチッと合うと、まるで驚いたかのように急に口を噤(つぐ)んでそっぽを向いた。
玄竜はそのせいでますます機嫌が悪くなり、少し移動してすぐ傍に置いてある網張りの棚から「豚の足」を取り出すと、それをムシャムシャと乱暴に噛み始めた。
それは朝鮮特有の安直な酒場で、茶碗ほどの大きさがある盃一杯に、おつまみまでついてたったの五銭で飲める店だった。
彼はいつもなら好んで口にする、明け透けで卑わいな冗談を言う暇すら惜しいほど、立て続けに何杯もお酒を引っ掛けた。
店の外から暖簾(のれん)の中にちょこちょこと首を出し、彼が出てくる気配を探っていた乞食の子供たちも、ついにあきらめたのか、いつの間にかどこかへ消え失せてしまっていた。彼は、こうしてお酒を飲み始めると、耳鳴りがして足が動かなくなるまでぐでんぐでんに酔っぱらわないと気がすまない性質(たち)だった。
しかし彼がそこまで泥酔するためには、この薬酒なら少なくとも六十杯はおかわりしなければならなかった。
そうして一杯また一杯と盃を重ねるうちに、酔いがだるく全身に回り、次第に胸をしめつけるような悲しみが襲ってきた。
今夜中にはどうにかして田中を見つけ出さなければならないのだ。
そうだ、ここからすっかり酔いつぶれて店を出て、もう一度朝鮮ホテルへ押しかけていくんだ。
そして田中に助けを求めれば、すべてはうまく運ぶに違いない。
そう思うと、なんだか自分が寺へ預けられるということが、急に哀れな喜劇のように思えてならなかった。
自分もあの瓢箪(ひょうたん)のようなぐりぐり坊主になって袈裟(けさ)を身にまとい、鼻水をよくすすり上げる正覚(しょうかく)という禿げ坊主の前で、毎日毎晩、数珠を首にかけて神妙に禅を組まねばならないとは。
彼はこの悲痛な気持ちを打ち消そうと、妙に喉にからんだ甲高い声を出して一人で笑ってみた。
だが、彼は自分の笑い声にびっくりして、慌てて肩にかけていた桃の枝を胸に抱きしめ、じっと息を殺した。
しばらくそうしていると、心はしずしずと遠のいていき、体じゅうがとろけ込むようで、ふっとかすかな光を帯びていろいろな女の幻影がとりとめもなくちらちらと動いて見える。
×××××(五字欠損)メロン頬の女。
その陰で、女流詩人がにっと笑っている。
口を少しすぼめて、「明日の朝行くわ」と囁くのさえ聞こえるようである。
そうだ、今夜はどうしてもあのじめじめした下宿の穴部屋へ戻って、彼女を待たなければ……。
すると彼女の水で洗ったような××××××××(八字欠損)が空間に浮かび上がり、それがだんだんと腕を広げて、熱いむせるような息を吹きかけながら自分の体を襲ってくるような錯覚が起きた。
それにしても、田中は一体どこにいるのだろう。
彼はこのように現実と夢幻の間を右往左往しているうちに、今度はまた、なんとなく田中の妹である明子(アミコ)のことを思い起こした。
田中もその頃は一介の文学青年として苦労していたが、一緒にいる妹の方は女子に通っている美しい娘さんだった。
当時、彼はありったけの熱情を傾けて彼女を愛しているつもりだったが、田中にしろ彼女にしろ、自分に良い感情を持っているどころか、軽蔑(けいべつ)さえしていたのだ。
よく彼は一里もある明子の所まで歩いていっては、いろいろと図々しいことの限りを尽くしてみたが、彼女は彼の恥知らずなほど異常な情熱を馬鹿にするだけだった。
朝鮮の貴族で天才だということも、彼女にはちっとも効き目がなかった。
こういうふうに毎日彼女に冷たくされて帰る道すがら、前々から知り合いの女給の宿へ行っては泊まっていたのだ。
彼がこの女給を切りつけたのは、いよいよ意を決し、田中のいない隙を見計らって明子を襲おうとした計画が失敗した、その晩の帰りのことだった。
そのために内地から追放されて朝鮮へ帰り、どうにかこうにか伝手(つて)を頼って娯楽雑誌などに文章を書くようになったが、彼は空想を膨らませてこの若い恋の経験を神秘化し、明子という美貌の純粋な娘に熱烈な恋を寄せられたというふうな話を、バルカンの志士インサローフとロシアの乙女エレーナとの恋物語(ツルゲーネフの小説『その前夜』より)になぞらえて、いつも方々に書き連ねていたのである。
だから人々も、これだけはまさか嘘ではないだろうと信じ込み、自分もそれを何度も書いているうちに、すっかり本当のことのように思い違いをして、今では美しい思い出となっていた。
ああ、あの明子は今どうしているのだろう。
早く田中に会って聞いてみたい。
すべてが今となっては、自分を悲しませる種ばかりではないか。
頭が急にくらくらしてきて、何か突拍子もないことでもしでかしかねない気持ちである。
不意にまた、先ほどの百姓の絶望的な叫び声が聞こえてくるような気がする。
自分こそ、あの百姓のように救いのない絶望のどん底へ突き落されてもがいている人間に違いない。
色っぽくて下品な言葉もとっくに書き尽くしたし、法螺(ほら)ももう誰も信用してくはしない。
わずかばかり知っているドイツ語の単語もすでに何度も繰り返して書いたし、うろ覚えのラテン語十三個も十三回以上にわたってしゃべったし、フランス語はなおさらのことで、文章の終わりには必ず「FIN(おしまい)」という文字をつけたのに、もう今では原稿の注文も来なくなったのでそれもおさらばになった。
柔道初段以上という脅し文句もどうやら効き目がなくなり、二段や三段はおろか、物騒なボクサー(拳闘選手)までうようよしている。
家もない、妻もない、子もない、金もない。
最後に彼が頼るべきものとして思いついたのは、愛国主義者という美しい名前の裏に隠れて、あらゆるものに対して復讐(ふくしゅう)を企てるばかりか、勢力のある大村にかばってもらうことだったのだ。
だが、朝鮮の文人たちの間にも波のように時局認識運動が高まり、鮮やかに水煙を上げて彼らが自分を追い越して去っていったのだ。
それを思えば、ほかの連中が歯ぎしりするほど憎くてならない。

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