私はなんとなくチェホフの小説に出てくる子猫と子供の話を思い出して、あまりきびしく子供たちを叱る気にもなれませんでした。
子猫たちの目が開きかけるころになると、ときどき棚の上から下ろして、畳の上を這いまわらせました。
そんなときは家中の人間がみんなで集まって、この小さな奇跡をぐるりと囲んで見守りました。
そうやって何日も繰り返すうちに、おぼつかない足取りがしっかりしていくのが目に見えてわかりました。
単純な感覚のあつまりから、経験や知識がだんだん積み重なっていく道筋は、おそらく人間の赤ちゃんの場合とよく似ているのではないかと思われました。
そして、その成長のスピードが人間に比べて驚くほど速いということも、否定できない事実でした。
このように、知能の限界に近い動物のほうが、それの遠い人間(※大人になるまで時間がかかる人間)に比べて、成長に追いつく速度が早いということは、なかなか興味深いことだなと思ったりしました。
物質を扱う科学の世界には、これによく似た例はめったにないでしょう。
二匹の子猫は、だいたい三毛に似た毛をしていました。
一匹は「太郎」、もう一匹は「次郎」と呼びました。
残りの二匹のうち、一匹は玉のような赤黄色いのと、もう一匹は灰色と茶色の縞模様のあるもので、前のを「あか」、後ろのを「おさる」と名づけました。「おさる」は、顔の縞模様がなんとなく猿の顔に似ていたからです。
そして、背中の模様がトラのようだから「鵺(ぬえ)」だと言う人もいました。
この「鵺」だけが女の子で、ほかの三匹はみんな男の子でした。
大きくなるにつれて、四匹の性格や個性のちがいがはっきりとわかるようになってきました。太郎はおっとりとしていて愛嬌があり、それでいてちゃんと男らしさがありました。
次郎も育ちの良さは太郎に似ていましたが、なぜか少し無骨でのんびりしたところがありました。
赤は顔つきからして神経質でキツネのような雰囲気がありましたが、実際とても臆病というか用心深く、子供らしい無邪気さが少なかったです。
おさるは女の子だからかどこか女らしいところがあり、捕まえられたりするとけたたましい悲鳴をあげて周りを驚かせました。
玉を連れてきて子猫の群れの中に入れていると、赤と次郎はひどく怯えて背中を丸め、体をこわばらせましたが、太郎とおさるはすぐに慣れて平気にしていました。
玉のほうは相変わらずものすごく冷淡な伯父さんで、面倒くさがってすぐにどこかへ逃げていってしまいました。
四匹の子猫たちに対する四人の子供たちの気持ちにも、やはりそれぞれ違いがありました。
これはもうどうしようもない自然の仕組みなのでしょう。
好き嫌いは良くないと言って、もし好き嫌いのない世界があったとしたら、それはどんなに寂しいものか分かりません。
子猫たちはそれぞれ、もらい手の家へと貰われていきました。
太郎はあるデパートで働いている夫婦の家へ、次郎は少し離れたところにある大きなお屋敷へ、赤は一人暮らしの隠居隠居のところへ、最後におさるはすぐ近くの電車通りにある氷屋さんへと、それぞれ引き取られていきました。
私は記念になればと思って、その子猫たちが寝ている姿を油絵の具でスケッチしておいたのですが、それが今でも書斎の棚の上にかかっています。
下手くそな絵ではありますが、それを見るたびに私はなぜか心がほっと和らぐような気がします。
太郎が行った家には少し縁があったので、幼い子供たちは時々様子を見に行きました。
おさるがもらった氷屋さんも都合が良い場所なので、通りがかりによく様子を見に行くようです。
秋になると、その氷屋さんは焼き芋屋さんに変わりました。
お店の框(かまち)の日の当たるところで、香箱座りをしてうたた寝している姿を私も時々見かけます。
前を通るたびに、ついついお店の中をのぞき込みたくなってしまう自分のことを、我ながらおかしいなあと思います。
今でも時々、家族の間で子猫たちの噂話が出ます。
そして、猫にとっても避けられない運命の良し悪しがいつも話題になります。
このあいだ近所のドブ川に死んでいた哀れな野良猫の子も話に出てきて、同じ過酷な運命から救い出されて三毛に育てられ、豊かな家にもらわれていったあの「ちび」がいちばんの幸運だと言う者もいれば、おじいさん一人の家に行った「赤」がいちばん気楽でいいんじゃないかと言う者もいました。
妻は特に可愛がっていた太郎があまり恵まれていなかったことを残念がっているようでしたが、私はなぜか芋屋の店先で眠っているおさるの行く末に心を惹かれました。
ある夜の遅い帰り道、芋屋の角まで来ると、路地裏のゴミ箱のそばをそろそろと歩いているおさるの姿を見かけました。
近づいて頭をなでてやると、逃げようともせずにおとなしくなでられていました。
背中がなんだか骨ばっていて、あまりツヤのない毛の手触りもなんだか切なさを誘いました。
娘を嫁にやった後のような複雑な「父親」の気持ちを思いながら、私はおぼろ月夜の路地を抜けて、ほど近い我が家へと急ぎ足で帰っていきました。
私は、猫に対して感じるような純粋で温かい愛情を、人間に対してはなかなか抱くことができないのを残念に思います。
そんなことができるようになるには、私は人間よりも一段高い存在にならなければいけないのかもしれません。
でもそんなことはとてもできそうにありませんし、仮にそれができたとしたら、そのとき私はきっと超人のような孤独と悲哀を感じなければならないでしょう。
凡人である私は、やっぱり子猫でもかわいがって、人間は人間として尊敬し、親しみ、恐れ、遠慮し、あるいは時には憎むよりほかないのかもしれません。
(大正十二年一月、女性)
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