初級翻訳・孫七とずんど 第4話

孫七とずんど

ちょうどそのとき、武田信玄が相模(さがみ)の北条氏(ほうじょうし)と戦争を始めたものだから、「いまだ!」とばかりに大急ぎで作戦を立てて、天方城を攻め取るための大軍を出発させたんだ。

出陣の命令を受けた石原寸度右衛門(いしはらずんどえもん)は、大急ぎで孫七郎(まごしちろう)の家へとんでいった。

孫七のやつは、家のひさしの下で鎧(よろい)を引っ張り出してきて、ものすごくのんびりとした調子で、鎧の金具をピカピカに磨いていたところだった。

「どうしたんだ孫七! 榊原(さかきばら)さまのところも兵を出すって聞いたぞ。いよいよおまえも出陣するのか?」

「なんだ、石原寸度右衛門か」孫七郎はこちらを見て、にやっと笑った。「いいお天気が続くよなあ。そんなところで突っ立っていないで、とにかくこっちへ上がってきたらどうだい?」

「そんなヒマないだろ! おまえ、出陣するのかしないのか、どっちなんだよ!」

「まだ何も聞いてないけどねえ、何にもさ……」

「そんなのんきなこと言ってないで、ちょっくら、すぐに行って願い出てこいよ孫七! 俺も一緒に行ってやるからさ。今度こそ出陣して、一旗揚げようぜ! さあ、一緒にいくぞ!」

「おまえ、無理なことを言うなよ、石原寸度右衛門」

「どうして俺が無理を言ってるんだよ!」

「だって考えてみろよ」鎧の金具をゆっくりと布で拭きながら、孫七郎は一つひとつ言い聞かせるように話し出した。「戦争というものはだな、戦場で武器を交えて戦うことだけがすべてじゃないんだ。もちろん戦いの場も大切さ、大切だけれどもさ、誰もかれもがみんな戦場へ出ていってしまったら、あとをどうするんだ? なあ、石原寸度右衛門、そんな単純な話じゃないだろ。お城の留守を守る役目もあるし、兵糧(ひょうりょう)や軍資金を運ぶことだってある。武器や弾薬の補給だって、なかなか大変な仕事なんだからな」

「もうたくさんだ、たくさんだ孫七!」本当にうんざりした様子で、寸度は手をぶんぶんと振った。「そんなことよりおまえ、戦場へは行きたいのか、行きたくないのか!? 武士として、一度くらいは出陣してみたいと思わないのか!」

「またすぐ怒る男だなあ、石原寸度右衛門。おまえはどうしてそうすぐにカッカと頭に血がのぼるんだよ」

「俺は……」そう言いかけて、寸度右衛門はまるで目の前のものに飛びかかり、噛みつきでもしそうなすごい目つきでにらみつけた。

もちろん、本当には飛びついたり噛みついたりしなかったけれど、彼は顔を真っ赤にパンパンにふくらませて、「勝手にしろ!」と言うが早いか、くるっと背中を向けて猛ダッシュで走り去ってしまった。

それから間もなく、天方城を攻めるための大軍が、浜松城を出発した。

大将は平岩親吉(ひらいわちかよし)。それに家康の家来の中から選び抜かれた精鋭、千五百余りの騎馬武者を引き連れて、天竜川(てんりゅうがわ)に沿って川上へとさかのぼり、東へ渡って本宮山(ほんぐうさん)を越え、一気に天方城のうしろ側(搦手/からめて)を攻め立てるという作戦だった。

季節は春の三月……。山はちょうど木の芽がどんどん出てくる時期で、あらゆる木々の梢(こずえ)が、それぞれの新しい芽の色でふんわりと霞(かす)むように彩られていた。

誰かがうっとりと褒めている通り、それは秋の紅葉の山よりも美しく、本当に目を見張るほどあでやかな景色だった。

木々のあいだからは桜の花が顔をのぞかせ、満開の桃の花も見え隠れする。日だまりには山吹(やまぶき)の鮮やかな黄色がまるで燃えているかのように咲き誇り、谷のほうからはウグイス(老鶯/ろうおう)の鳴き声があちこちで聞こえてくる。つまり、ざっくり言ってしまえば、まるで物見遊山(ものみゆさん)にでも歩いているような、とっても楽しい進軍だったわけなんだ。

……ところが、天竜川を渡る場所までやってきたところで、そこで急きょ、予定していた作戦を変更しなければならなくなった。

忍びの者(諜者/ちょうじゃ)を飛ばして調べさせたところによれば、敵の守りは二俣(ふたまた)の出城(でじろ)を中心に、待ち構えて迎撃する準備がバッチリ整っていたからだ。

そこで、川を渡る場所を上流へ三里ほど移動させ、夜の闇に乗じて一気に川を渡り、荷物を積んだ馬(小荷駄/こだ)はそのまに置いて、大急ぎで本宮山のすそ野にとりついた。

そして兵を二手に分けた。一軍は山を越えて城のうしろ側(搦手)を攻め、もう一軍は山のふもとを南へまわって表側(大手/おおて)を突く。この二方向からの挟み撃ちの陣形で、ものすごい勢いで攻め寄せたのだ。

浜松を出発してから三日目の早朝、城の中にいる兵士たちの鉄砲の音を合図に、ついに合戦の火ブタが切って落とされた。

石原寸度右衛門は、大久保新十郎(おおくぼしんじゅうろう)と一緒に、表側(大手)の先頭に立って攻める役割を任されていた。

槍を持った組を百騎ほど従えて、飛び交う矢や鉄砲の弾のなかを「うおおお!」と夢中で突っ込んでいった。もちろん、そのまま一気に城へ乗り込もうというわけではなくて、言ってみれば敵の強さや勢いを探るのが目的なので、まっしぐらに二段ほど突撃したあとで、兵たちをまとめていったん道端のくぼんだ場所へ退避した。

敵の鉄砲の撃ち方がものすごく激しかったので、これ以上無理に進むことができなかったからだ……。彼らはくぼ地にドッと飛び込むと、胸が苦しくなるほどハァハァと息を切らせていた。鎧や武具の下は、みんなびっしょりと汗で濡れていた。

「これはどうも……」ふと、頭の上の方からのんびりした声が降ってきた。「あぶないもんだなあ」
寸度は「えっ?」とびっくりして振り返った。すると、まさにその場所に、あの柿ノ木孫七郎(かきのきまごしちろう)が立っていたものだから、今度こそ本当に腰が抜けるほどびっくりしてしまった。

孫七は、兜(かぶと)の鉢を後ろへパカッと跳ね上げて紐にかけ、槍を片手に持って、あの大きな目を糸のように細くしながら、じーーっと敵陣のほうを見つめている。寸度はもう自分を忘れ、「おい、孫七じゃないか!」と大声で叫んだのだ。「おまえ来たのか、やっぱり来たのか孫七」
「ああ来たよ」孫七はちらとも見向きもしなかった。「つまり来たから、自然にここにいるわけだ」
「いつ来た、どうして、どこで追いついた、よく来られたな、どうしたんだ」
何もかも一遍に訊きたい気持ちでそうたたみかけたけれど、孫七郎は返事もしないで敵陣を見つめていた。
矢が飛んできたり弾丸が土をはね返したりするたびに、彼は大きな目をパチクリと見開いて、ひょいとその飛んでいく先を見送った。それはまるで、まったく理解できないものの正体をつきとめようとするような、好奇心と驚きが入り混じった目つきだった。
二十七歳にして初めて戦場に出た彼には、あらゆる景色が生々しく鮮やかで、その逃げも隠れもない実感がどうにも胸にこたえるとみえる。やがて孫七郎は、ゆらりと首を振った。
「いやはやどうも」彼はすっかり感心したような声でつぶやいた。

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