初級翻訳・少年探偵団 第1話

少年探偵団

黒い魔物

 そいつは全身に、まるで墨を塗りたくったように、おそろしくまっ黒なやつだということでした。
「黒い魔物」のうわさは、もう東京じゅうにひろがっていましたが、ふしぎなことに、はっきりとその正体を見きわめた人はだれひとりいませんでした。
そいつは暗やみの中だけにしか姿をあらわさないので、何かしらやみの中に、やみと同じ色のものがもやもやとうごめいているのはわかるのですが、それがどんな男なのか、あるいは女なのか、おとななのか子どもなのかさえ、はっきりとわからないということでした。
あるさびしい屋敷町の夜番のおじさんが、長い黒板塀の前を、例の拍子木をカンカンとたたきながら歩いていますと、その黒板塀の一部分がちぎれでもしたように、板塀とまったく同じ色をした人間のようなものが、ヒョロヒョロと道のまんなかに姿をあらわし、おじさんのちょうちんの前で、まっ白な歯をむきだしてケラケラと笑ったかと思うと、サーッと黒い風のようにどこかへ走りさってしまったということでした。
夜番のおじさんは、朝になってみんなにその話を語って聞かせましたが、そいつの姿があまりにもまっ黒なものだから、まるで白い歯ばかりが宙にういて笑っているようで、あんなに気味の悪いものはなかったと、まだ青い顔をして、いかにもおそろしそうに、ソッと後ろをふりかえりながら話すのでした。
ある闇夜の晩、隅田川を下っていたひとりの船頭が、自分の船のそばにみょうな波がたっているのに気づきました。
星もない闇夜のことで、川の水は墨のようにまっ黒でした。
ただ櫓が水を切るごとに、うす白い波がたつばかりです。
ところが、その櫓の波とは別に、船の脇に絶えず不思議な白波がたっていたではありませんか。
まるで人間が泳いでいるような波でした。
しかし、ただそういう形の波が見えるだけで、人間の姿はすこしも目にとまりません。
船頭はあまりの不思議さに、ゾーッと背すじへ冷たい水をあびせられたような気がしたといいます。
でも、やせがまんをして、大きな声でその姿の見えない泳ぎ手にどなりつけたということです。
「オーイ、そこに泳いでいるのはだれだっ」
すると、水をかくような白い波がちょっと止まって、ちょうどその目に見えないやつの顔があるあたりに、白いものが現れたといいます。
よく見ると、その白いものは人間の前歯でした。
白い前歯だけが黒い水の上にフワフワとただよって、ケラケラと例の不気味な声で笑い出したというのです。
船頭はあまりのおそろしさに、もう無我夢中で、後ろも見ずに船をこいで逃げ出したということです。
また、こんなおかしな話もありました。
ある月のきれいな晩、上野公園の広っぱにたたずんで月をながめていたひとりの大学生が、ふと気づくと、足もとの地面に自分の影が黒々と写っているのですが、みょうなことにその影がすこしもうごかないのです。
いくら首をふったり手を動かしたりしても、影のほうはじっとしたままで身動きもしません。
大学生はだんだん気味が悪くなってきました。
影だけが死んでしまって動かないなんて、考えてみればおそろしいことです。
もしや自分は気が狂ってしまったのではないだろうかと、もうじっとしていられなくなって、大学生はいきなり歩きはじめたといいます。
すると、ああ、どうしたというのでしょう、影はやっぱり動かないのです。
大学生がそこから三メートル、五メートルとはなれていっても、影だけはすこしも動かず、もとの地面によこたわっているのです。
大学生はあまりの不気味さに立ちすくんでしまいました。
そして、いくら見まいとしても、気味が悪ければ悪いほど、かえってその影をじっと見つめずにはいられませんでした。
ところが、そうして見つめているうちに、もっとおそろしいことがおこったのです。
その影の顔のまんなかが、つぜんパックリとわれたように白くなって、つまり影が口をひらいて白い歯を見せたのですが、そして例のケラケラという笑い声が聞こえてきたのです。
みなさん、自分の影が歯をむきだして笑ったところを想像してごらんなさい。
世の中にこんな気味の悪いことがあるでしょうか。
さすがの大学生も、アッと叫んであとも見ずに逃げ出したということです。
それがやっぱり例の黒い魔物だったのです。
あとで考えてみますと、大学生は月に向かっていたのですから、影は後ろにあるはずなのを、目の前に黒々と人の姿が横たわっていたものだから、つい自分の影と思いちがいしてしまったのでした。
そうして、黒い魔物のうわさは日一日と高くなっていったのです。暗闇の中から突然飛び出してきて、通行人の首を絞めようとしたとか、夜、子どもが一人で歩いていると、まるで黒い風呂敷のように子どもを包み込んで、地面をコロコロと転がっていってしまうとか、種々雑多な噂が伝えられ、怪談は怪談を呼んで、若い娘さんや小さな子どもなどは、もうおびえ切ってしまって、決して夜には外出しないほどになってきました。

この魔物は、昔の童話にある、隠れ蓑を持っているのと同じようなものでした。
隠れ蓑というのは、一度その蓑を身につけますと、人の姿が消え失せるように見えなくなって、人の中で何をしようとも思いのまま、どんな悪いことをしても捕らえられる心配がないという、とても便利な魔法なのですが、黒い魔物は、それと同じように、闇の中に溶け込んで、人目をくらますことができるのでした。

インド人や南洋の土人の肌の黒さは、本当の黒さではありません。
その魔物の体は、どんな濃い墨よりももっと黒く、黒さが絶頂に達して、ついに人の目にも見えぬほどになっているに違いありません。
黒い魔物は、闇の中や、黒い背景の前では、忍術使いも同様です。
どんなイタズラも思いのままです。
もしそいつが、何か恐ろしい悪事を企んだならどうでしょう。
悪いことをしておいて、捕らえられそうになったら、いきなり闇の中に溶け込んで、姿を消してしまえばいいのですから、こんなに簡単なことはありません。
また、捕らえる方にしてみれば、こんなに困った相手はありません。

黒い魔物とは、果たして何者でしょうか。
男でしょうか、女でしょうか、大人でしょうか、子どもでしょうか。
そしてまた、この正体の知れぬ黒い影法師は、いったい何をしようというのでしょう。
ただ黒板塀から飛び出したり、黒い水の中を泳いだり、人の影になって地面に横たわったりする、無邪気なイタズラをして喜んでいるだけでしょうか。
いやいや、そうではありますまい。
あいつは、何かしらとてつもない悪事を企んでいるに違いありません。
いったい全体、どのような悪事を働こうというのでしょうか。

この悪魔を相手に回して戦うのは、小林少年を団長とする少年探偵団です。
十人の勇敢な小学生によって組織された少年探偵団、団長は明智探偵の名助手として知られた小林芳雄少年、その小林少年の先生は、言うまでもなく大探偵明智小五郎です。
日本一の私立名探偵と、その配下の少年探偵団、相手はお化けのような変幻自在の黒い怪物、ああ、この戦いは、どのように繰り広げられることでしょう。

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